特別集会

 

 

幼稚園集会

 願書受付

11月1日(水)から

入園・未就園児クラス

申し込み

随時受け付けています

バプテスト東福岡教会

福岡市東区馬出4-13-15

TEL:092-651-3978

     092-651-6270 


アクセスカウンター カウンターカフェ

2019.12.15 「平和を実現する者」(全文) ミカ書4:1-8

1:  ミカ書

 今日の箇所は、ミカ書です。皆さんは、このミカ書をどれくらい読んだことがあるでしょうか。私たちは、このミカ書を読んではいたとしても、内容として、どのようなことが記されているのか、なかなか覚えてはいないのではないかと思うのです。そのような、ミカ書でも、有名な言葉がいくつかありますので、皆さんも、この言葉なら、聞いたことがあると思われると思います。

 一つは、今日の箇所の中の4:1-3です。実は、この箇所は、イザヤ書の2:2-4と同じ箇所となっております。3節だけお読みします。【4:3 主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。】(ミカ書4:3)

 これと同様に、とても有名なのが、ミカ書の5:1の預言の言葉です。これは、イエス様が、ベツレヘムに生まれるということを、預言した箇所となっています。【エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。】(ミカ書5:1)

 このように、もはや、戦うことを、学ばないと語る、まさに、絶対平和主義を示した4章の言葉、そして、救い主の誕生を預言した5章の言葉。ミカ書には、このような言葉があるのです。

 

 このミカ書の御言葉は、どのような背景、どのような時代の中からでてきたのでしょうか。ここで、簡単にではありますが、一度、ミカ書全体の流れを見ていきたいと思います。このようなときに、新共同訳聖書がつけている、小見出しというのは、とても役にたちます。今日は、この新共同訳聖書の小見出しを見ながら、全体の流れを見ていきたいと思います。

 まず1章には、「神の審判」という小見出しがついています。これは、神様の審判がイスラエルの人々に、またユダの人々に下るだろうという、とても厳しい、預言でした。2:2には、このように記されているのです。【2:2 彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人から家を、人々から嗣業を強奪する。】(ミカ書2:2)

 ここでは、とても現実的な社会の中での罪、悪が示されているのです。この言葉の背景には、具体的に富んでいる者たちが、農民たちの、土地を取り上げていったという背景がある。そしてそのような、具体的な苦しみを見ている、ミカ自身がいたのです。これは預言者ミカが農民、おそらく、小作民の出身であったということも、関係しているのでしょう。ミカは人々の生活の苦しみや辛さをよく知っていました。そして、よく知っているだけではなく、まさに、そのことを、自分自身の苦しみとして、痛み、その辛さを受け取っていたのです。だからこそ、このような言葉を語ったとも考えられるのです。

 そして、2:6以下には、「ユダの混乱」という小見出しがあり、12節で、「復興の預言」という小見出しがあるのです。しかし、復興の預言は短いもので、すぐに3章に入り「指導者たちの罪」という小見出しになっているのです。

3章「指導者の罪」という小見出しの中にあります、3:2-3にはこのような言葉が記されています。【「善を憎み、悪を愛する者、人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る者らよ。彼らはわが民の肉を食らい、皮をはぎ取り、骨を解体して、鍋の中身のように、釜の中の肉のように砕く。」】(ミカ書3:2-3)

 この言葉は、とても、現実として想像したくない、恐ろしい言葉です。そして、このような罪の世界は、神様の御心ではない。神様の御心が表されるときには、平和の時が来るのだと、4章で小見出しに「終わりの日の約束」として、主の約束、神様の平和が描かれていくのです。この「終わりの日の約束」が、今日の箇所であり、先ほど読みました、【彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。】(4:3)と教えるのです。そして続く、5章において【エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。】(5:1)と、救い主の預言が語られるのです。

 

 このように、4-5章では、罪が指摘され、救いの預言が与えられる。そのように、恵みを与えられる形となっているのですが、ミカ書は6章になると、再び、「主の告発」という小見出しになります。しかし、ここでは、強い罪の告発というよりは、人々が、神様のもとへ正しく立ち帰るべき、その「道のり」が示されているのです。この中にある、6:8は、とても印象的な言葉となっているのです。【人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。】(ミカ書6:8)

 「へりくだり、神様と共に歩むこと」。これが、神様が私たちに求めている行為だと教えています。 そして、7章になりますが、7章の前半は、「民の腐敗」という小見出しがつけられています。民の腐敗がここでも具体的に述べられて7:2【人々の中に正しい者はいなくなった。】と厳しく語られます。しかし7節では、このようにも語られるのです。【7:7「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。」】

 このように述べられたあと、ついに、ミカ書の最後、7:8以下まとめの部分がきます。ここの小見出しは、「新しい約束」となっているのです。この中で、ミカは9節において、このように語るのです。【わたしは主に罪を犯したので、主の怒りを負わねばならない、ついに、主がわたしの訴えを取り上げ、わたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る。】(ミカ書7:9)

 ミカはここで、自分の罪を告白し、罪を認めているのです。そして自分が神様の怒りのもとにあることをも認めています。しかし、同時に、ミカは、神様が自分を赦してくださるということを、救ってくださる方であるということを、信じていたのです。ミカが、「主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る。」(7:9)と語っているように、神様は、光に導かれる主であり、その恵みに導いてくださるということを信じていたのでした。

 そして、そのミカが、最後に18節からこのように語るのです。【7:18 あなたのような神がほかにあろうか、咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない、神は慈しみを喜ばれるゆえに。 7:19 主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。 7:20 どうか、ヤコブにまことを、アブラハムに慈しみを示してください、その昔、我らの父祖にお誓いになったように。】(ミカ書7:18-20)

 

2:  主の御名 「イエス」

 さて、ミカ書全体の流れを見た上で、今日の箇所4章から見ていきたいと思います。4章は、まさに、罪の裁き、そのような罪の告発から、神様の恵みへと変えられていく、その場面となるのです。「厳しい裁きの言葉」から、「慰めに満ちた救いの言葉」へと移り変わる、その時、その場面となるのが、この4章なのです。そこに、記されている言葉は、4:3にあるように【「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」】という、まさに、平和を求めた言葉でした。ここでは、罪からの解放、神様の慰めの中で、平和が実現することが望まれているのです。平和の実現のために、ミカは、まさに、罪の赦しが必要であると、罪の悔い改めが必要であると語っているのです。 神様は、私たちが、自らの罪を認め、悔い改めることによって、平和を実現することが求められているのです。

 今日の箇所ではそのために、続けてこのように語るのです。【どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに、我らの神、主の御名によって歩む。】(ミカ書4:5)ここで【どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む】そして、【我らの神、主の御名によって歩む。】と記されているのです。この神様の名前。それが、私たちの中ではっきり、与えられたのが、まさにクリスマスの出来事でもありました。

 今はクリスマスを待つ、アドベントの時です。クリスマスは、神様が、人間となりこの世に来られたことです。そして同時に、それは神様が一人の人間として、名前を持ち、私たち人間と対等に向き合う方として来られたということです。聖書において、天使は、ヨセフとマリアに、「イエス」と、そして、「インマヌエル」と、名づけるように示されたとあるのです。つまり、救い主の誕生は、夢物語、単なるいつかの希望、幻想ではなく、現実の出来事として、「イエス」が与えられたのです。そして、神様との親しさ、近さとしての「インマヌエル」「神は我々と共におられる」という名前が与えられたのです。神様の名前が与えられる関係、それは、神様が、私たち一人ひとり人間と、しっかりと向き合う関係を意味しています。そして、その関係の中でこそ、私たちは、自らの罪の悔い改め、罪の告白をする者とされていくのです。

 

3:  イエスによって平和を実現する者とされる

 私たちの罪の告白。それは、このイエス・キリストによって、イエス・キリストに支えられて、イエス・キリストに向けて為されていく。だからこそ、この名前による関係、この名前による親しさが、私たちには必要なのです。私たちは一人では、本来、罪の告白も、悔い改めも、また、それによる、平和の実現も、何一つなすことはできない、それが人間です。そしてだからこそ、イエス・キリストがこの世に来てくださったのです。私たちは、罪人としてただ落ち込むのではなく、罪人として、神様の恵みを頂く者とされたのです。

 アドベントは喜び、待つ時です。イエス・キリストによる救いに喜ぶのです。私たちは、イエス様がこの世に来てくださったことを喜びましょう。イエス・キリストがこの世界に生まれてくださった。私たちは、このキリストの誕生、インマヌエル「神は我々と共におられる」という神様の業によって、罪の告白も、悔い改めも、為す者とさせられていくのです。そして、私たちは、その中にあってこそ、イエス・キリストによって、平和の主である、イエス・キリストによってこそ、平和を実現する者へと変えられていくのです。今、このアドベントの時、イエス・キリストによる恵みを待ち望みましょう。そして喜びが溢れる世界、平和を実現する者へと変えられていきたいと思います。(笠井元)