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2019.12.22 「いのちを得る道」(全文) 列王記上17:8-16

 皆さまは今年を振り返って今、どうような想いを持たれているでしょうか? 今年の「流行語大賞」は、One Team だそうですが、ラグビーワールドカップにおける日本チームの健闘が印象に残っているでしょうか? しかし、裏を返せば、私たち市民が別の処では、一つになれず「分断」されている現実があるのではないかと思います。台風による度重なる被害がありました。大型台風の上陸は、確かに地球温暖化による異常気象が原因ではあるでしょうが、被災地の復旧に、特に道路が寸断され、長引く停電からの復旧に手間取りました。一見便利な世の中が、経済効率のみを追い求めた結果としてかなり「脆弱」になっていることが露呈したと言えないでしょうか? テレビでは放映されない処での被害も大きくいまだ多くの問題を抱えているであろうことを忘れないでおきたいものです。また、規制緩和・自由競争の名の「一億総活躍時代」という安手の労働力の出現で貧富の格差が拡がり、特に、若者たちにしわ寄せが行っていないでしょうか?そんなことを考えさせられた一年でした。お料理と健康・医療番組の花盛りと共に、ニュースや天気予報などもオチャラケ・バライエテイ型になっている異常さも気になる一年でした。

 

1.静かに進む危機

 数年前から「今だけ、金だけ、自分だけ」という言葉で言われてきた風潮がかなり深刻化していないでしょうか?この言葉を誰が言い出したのかを知りたくて、12月に入り、鈴木宣弘『食の戦争 米国の罠に落ちる日本』(1958年生まれ、東大農学部卒、農林水産省の官僚を経て、九州大学大学院教授)2013年出版)を買って読んでみました。彼によると、この「今だけ、金だけ、自分だけ」というフレーズは、池田整治(まさはる?)という人が『今、「国を守る」ということ』(PHP研究所、2012年)という本の中で使ったそうです。話を鈴木宣弘さんに戻しますと、本のまえがきにこう書いています。「『今だけ、金だけ、自分だけ』は、最近の世相を反映している。目先の自分の利益と保身しか目に入らない人々が多すぎる。しかも、国民の幸せではなく、目先の自分の利益しか見えない政治家や、人の命よりも儲けを優先する企業の経営陣が国の方向性を決める傾向が強まっている。」(7頁)軍事力、エネルギーと並んで「食糧」が今や戦略物資となっています。確かに、スーパーマーケットにはモノが溢れていますが、「米国の世界支配の野望の中で、日本の食料自給率(カロリー計算で38%で、先進国で最低です。94頁)がこんなに低くて大丈夫なのかと問いかけています。むろん、コメの自給率は100%、野菜も79%です。しかし、遺伝子組み換え農産物と種の独占の問題、農薬の問題、食品添加物の問題、狂牛病問題、成長ホルモンを飲まされた牛乳の問題があります。日本は、小麦の自給率は11%(92頁)、そして、トウモロコシの9割、大豆の8割、小麦の6割を米国に依存しています(91頁)(米国では大豆の9割、トウモロコシの6割、綿花の8割が遺伝子組み換え品種です102頁)。異常気象による不作や他の要因で食料を輸入できなくなったらどうするのでしょうか。

 また、国の最近、国の「株式会社化」という言葉も聞いています。しかも、短期的利益を追求する米国型の資本主義です。規制緩和による自由競争と市場原理の導入で、1%の大企業に富を集中させ、そのおこぼれに与るという姿勢です。これでは、長期的には地域社会が崩壊していくでしょう。福岡市は水道事業も民営化でフランス企業に売り渡す計画がありましたが、安ければ良いというのは危険です。反対が多くて、今年撤回されましたので少し安心です。

 

2.列王記上17章の背景

 「今だけ、金だけ、自分だけ」社会のことを考えながら示されたのは、以前から気になっていた列王記上17章の不思議な物語です。当時、イスラエルは度重なる「飢饉」に襲われていました。北イスラエル王国は五穀豊穣の神バールを礼拝するという文化と宗教の問題に直面し、主なる神を礼拝するエリヤが預言者としてこれと闘っていました。多勢に無勢で追い込まれ、疲れ果て、飢饉にも襲われたエリヤは、地中海沿岸の都市シドンの近くのサレプタに行きます。シドンはイスラエルからすればまさに異国であり、五穀豊穣の神バールの本拠地です。

 エリヤがサレプタの街に入ると、最後に残った小麦粉と油でパン菓子を作って食べて、息子と一緒に死のうとしていたやもめに出会います。飢饉はこの町をも襲っていたのです。エリヤはこの人に水とパン一切れを求めます。「冗談じゃない、最後に小さな菓子を作って食べて死のうとしているんだ。分け与えるものなどない」というのが常識でしょう。しかし、このやもめは、なけなしのパンをエリヤに分かち与えるのです。するとどうでしょう! 幾日も「壺の粉は尽きることなく、甕の油もなくならなかった」というのです。これと似たような昔話がありました。おばあさんが確か鬼かなにかからオシャモジを貰ったか、奪い取ったかしたのですが、そのおしゃもじでお釜をかき回すとご飯が尽きなかったというような話でした。日本の昔ばかしは、めでたし、めでたし、で、おばあさんは、ご飯を隣近所に分かち合うことはありませんでした。この違いは大きいですね。まさに、あるのは、自分だけです。そして、不思議なことに、聖書では、神の人を飢饉の中で養ったのは富める者ではなく、貧しいやもめであった!というのです。そして、貧しいやもめと息子が生き延びたのは、なけなしの食べ物をエリヤに分かち与えたからであるというのです。

 これはまさに「今だけ、金だけ、自分だけ」とは正反対の生き方ではないでしょうか?古い伝説的な物語ではありますが、人生において、大切なことを問いかけていると思います。死のただなかにいのちの分かち合いが芽生えています。「今だけ」、これを食べて死のうではなく、明日の社会を夢見て生きるのです。貧しいこの女性が、神の人エリヤを養うのです!また、このことを通して過去に与えられた神の約束、そして、神の約束といのちの未来を受け継いでいくのです。また、「お金だけ」ではなく、いのちと地域における助け合いを大切にする生き方です。まさに、「自分だけ」ではなく、自分のお仲間、自分の権力の維持のためではなく、他者と共に生きるという方向性です。それは一見、自分と息子の命を危機に晒すように見えても、かえって、命を長らえる生き方なのです。神は死のような現実の中でいのちを与えて下さるのです!13節には「恐れてはならない」というあのクリスマス物語に度々登場する言葉が響いています。「恐れるな、ザカリア」(1:13)、「マリア、恐れるな」(30)、そして、羊飼いたちに対して、「恐れるな」と呼びかける天使の声が響いています(2:9)。また、ヨセフに対しても「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と語られます(マタイ1:20)。病・老い・いのちの危機に直面するときに、私たちは恐れます。貧困に直面して恐れます。暴力の横行に直面して恐れます。しかし、エリヤは語り、やもめは聞きます。「恐れてはならない!」。この世のあらゆる恐れから解放する言葉、「主なる神を恐れよ」、そこがしっかりしていれば、何か恐れることがあろうか!」神は死の中から命を起こしたもう神である。今日、私たちはこの言葉を聞くでしょうか?!

 

3.イエスの生涯

 マルコ8:35~37のイエスの言葉、特に、36節の言葉は、高校生時代この個所を読んで感銘を受けたものです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、なんの得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。

 クリスマスは、十字架に至るまで人々を愛し抜いたお方、あのイエス様の誕生日です。自ら十字架に至る道を歩まれた主イエスは、いのちを得る道といのちを失う愚かな道を私たちに問いかけ、決断を迫っています。十字架で殺され、3日目に甦られた主イエスが語ります。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、なんの得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。本当に、重たいですが、重要なことば、わたしたちを思い煩いから解放する言葉ではないでしょうか。

 

4.中村哲さんのこと

 12月4日中村哲さんがテロによって銃撃され、殺されてしまいました。心が凍り付くようなショッキングなニュースでした。パキスタンのペシャワールを拠点にして、アフガニスタンで貧しい人たちの支援に生き抜いた人、世界で今最も必要な人を、なぜ、神は助けてくれないのかと嘆げくばかりです。彼は西南中学を卒業して九大の医学部で学んだ医師でした。専門は、精神科であったようですが、ペシャワールに行き、医療活動に従事していました。しかし、医療活動をし、粉ミルクを配っても、それを溶かすきれいな水がないことに気が付き、井戸を掘りました。1600本の井戸を掘りました。また、最近では砂漠に灌漑用水を作っていました。専門は医者でしたが、必要とあらば、井戸も掘るし、用水を掘るショベルカーも運転・操作する処が、本当に自由人だと思います。こちらからの善意の押し付けではなく、貧しい民衆に必要なものを与えようとする姿勢は、まさに、イエス様の生き方に動かされた生き方であったと思います。彼は、この東福岡教会の伝道所であった香住ヶ丘教会で西南中学在学中にバプテスマを受けてクリスチャンになりました。盲目というハンデキャップを負った牧師である藤井健二先生の時代でした。まだ按手礼を受けていなかったので、F. M. ホートン宣教師が中村少年にバプテスマを施したそうです。私が東福岡教会に神学生として奉仕していた時代には、ホートン宣教師は確か小林伝道所、今の博多教会で奉仕をされていました。中村哲さんの遺体を迎えに成田空港に出向いたアフガン人は「ちょっとのお金で平和に暮らすことを中村先生から教わった。先生は心の中に生きていると」と言っていました。彼らは、アフガニスタンだけではなく、日本社会に生きるのも大変なことでしょう。「ちょっとのお金で平和に生きる」という言葉が印象的でした。また、中村哲さんの遺体を確認しにカブールに出かけた彼のお連れ合いと娘さんの姿をテレビで初めて拝見しました。海外で脚光を浴びて活躍する夫、そして、父親の背後で生きたお連れ合いと娘さんのお気持ちとご苦労とを思いました。

 今年のクリスマスはイエス様の誕生を喜び迎えると共に、当時、イエス様を神の人エリヤの再来であると考えた人もいたようですが、エリヤを養ったやもめと貧しいやもめに養われたエリヤの物語そして、中村哲さんのことを心に刻んで、新しい年を迎えましょう。私たちの生きる道、一方で、「命を得る道」と、他方、それが外面的には豊かで楽しく見えるのですが、命を失う道、「いのちを損する道」の選び取りに日々直面していることを覚えて生きて行きましょう。(松見俊)