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2020.1.19 「試練によって育てられていく信仰」(全文) マタイによる福音書14:22-36

1:  イエス様が祈っておられる 

 今日の箇所の前では、イエス様が5つの魚と二匹の魚によって、5,000人以上の人が満腹になり、しかも12の籠がいっぱいになったという奇跡が起こされました。今日の箇所は、このイエス様の奇跡の後のお話となります。この奇跡の後、イエス様は「すぐ」に弟子たちを、強いて船に乗せて向こう岸へと行かせました。そのように、イエス様は、奇跡によって強められた弟子たちを、新たな道へと押し出していくのです。今日の説教題は「試練によって育てられる信仰」としましたが、まさにここから、イエス様は弟子たちを試練の道へと押し出していったのです。そして、弟子を押し出す中、イエス様ご自身は祈りへと向かいました。この祈りの中で、イエス様が何を祈ったのかは書いていませんが、イエス様は、お祈りの一つとして、弟子たちのためにお祈りしたと思うのです。イエス様は、弟子たちを試練の道へと押しだし、その中で、自分自身は祈りへと向かわれたのです。弟子たちが試練の中にあって守られるように、祈ったのでしょう。これは、私たちが歩む困難の中で、その道が、イエス様によって押し出された、試練の道であり、そのときにイエス様が祈って下さっている姿として読み取ることができると思います。イエス様が祈って下さっている。厳しい困難の中にあって、このことを覚えたいと思うのです。私たちが歩き出す道において、それがどのような時であっても、私たちはイエス・キリストの祈りによって包まれているのです。

 

2:  荒波に飲み込まれる信仰

 イエス様の祈りに守られて出て行った、弟子たちですが、この弟子たちが乗った船は、逆風の中に悩まされていました。ここにおける風とは、この世における悪魔的な力、神様と人間を引き離そうとしていく力として見ることができるのです。弟子たちはイエス様に押し出されて歩き出した、その道には、逆の風が吹き荒れているのです。私たちが生きている、この世界には、神様を信じて生きていこうとする生き方とは、いつも逆の風が吹いています。イエス様は「神様を愛し」「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられました。しかし、この世では、「他者を愛する生き方」ではなく「自分だけを愛する自己中心的な生き方」を推し進める風が吹いているのです。私自身も含めてですが、人間は、まず自分自身のことを考える者です。そして、その人間の集まりである、この社会は、他者より、自分のことを考えて生きようとする社会となっているのです。

 最近は、少し寒くなりましたが、やっと冬になってきたと感じます。今年の冬は暖冬だと言われていますが、今年が特別な「暖冬」なのではなく、世界全体の気温が上がっているのだとも言われています。地球の温暖化は、私が小さい頃ですから、30年以上前から叫ばれていた問題です。しかし、何十年たった今でも、何も改善されていないどころではなく、どんどんと悪い状態となっているのです。今は、プラスチックによるゴミ、原子力のゴミ、そしてついには宇宙のゴミと、自分たちがよりよく生きるために、その先のことを何も考えずに作った、様々なものによる問題が山積みです。人間の環境破壊は、未来の生きる人を無視して、自分たちの生きやすさだけを求めて起こっている問題とも言うことができます。50年後、100年後、200年後、1000年後を考えて生きるのならば、もう少し、違った生き方ができるのかもしれません。 

 

 ここで弟子たちは、逆風に悩まされていました。つまり、イエス様に従おうとする弟子たちは、この世で生きる中で、悩んでいたのです。弟子たちはイエス・キリストに押し出されて湖に出ていったのです。しかし、その船はどのような風にも動じない強く大きな船ではなく、いつ沈むかも分からないような、小さい船なのです。ここには、弟子たちの信仰の姿を見ることができるでしょう。弟子たちは、イエス様に、押し出されて歩みだしました。しかし、その弟子たちの船は風が吹くごとに悩んでいました。つまりその信仰はいつもぐらぐらで、少し風が吹くとくじけてしまう、そのような弱く小さな信仰であったのです。そして、それは、私たちもまた、同様なのではないでしょうか。イエス様に出会い、押し出されて歩き出した。しかし、その信仰の歩みは、少し風が吹き、目の前に困難が立ちふさがると、恐れ、くじけてしまうのです。

 

3:  恐れの中で

 そのように、弟子たちが脅えて悩む中、弟子たちのもとにイエス様が一歩一歩近づいてきてくださるのです。イエス様は、脅える弟子たちのもとにきてくださったのです。しかし、弟子たちは、そのイエス様を見て「幽霊だ」(25)と恐怖し、叫ぶのです。弟子たちは、イエス様を見ても、それが誰なのか分かりませんでした。弟子たちが見ていた方。それはこれまで一緒にいて、自分たちを守り導いてくださったイエス・キリストです。しかし、恐れのなかにあって、弟子たちは、イエス様をイエス様だとは理解できなくなっていたのです。恐れは、その人の目を盲目にさせます。悩み、恐れるなかで、弟子たちは、目の前をきちんと見ることができなくなっていたのです。

 幼稚園では、安全計画、危機管理マニュアルというものを作成しますが、様々な災害に備えた計画を作成します。火事の時、地震のときに、どのような対応をするのか、そしてそのためにどのような訓練をしておくのかといった内容のものです。その中で、ここ数年で、その災害の中に、「ミサイル」「サイバー攻撃」「テロ」といった災害に備えた計画、また避難訓練を行うように、というお知らせがきました。例としては、「ミサイルが飛んできたら、窓から離れましょう」といったものです。

 今年は東京でオリンピックがありますが、インターネットでは、「東京オリンピックのときに必ずテロが起こる」「ミサイルが飛んでくる」と、人々の恐れをあおるような書き込みが多く掲載され、ニュースでも、人々の恐怖をあおっているようなニュースが続いています。安全のために対策をすること自体は大切なことですが、恐怖からものごとを考えていくときに、人間は、間違った判断をしてしまうのです。自分たちが攻撃をされる。「ミサイルが飛んでくる」。・・・「だから・・・やられる前にやってしまおう」「そのために軍備の強化が必要だ」という方向に進んでしまうのです。まさに、恐れにあおられ、何が正しいのかという判断を誤ってしまっている、盲目になってしまっている姿だと思うのです。

 

 そのようなおびえる者にイエス様は「安心しなさい」(27)と話しかけて下さるのです。そして、それは「わたしだ」という言葉であり、それは「わたしがここにいる」という言葉なのです。 主イエスは、逆風にくじけてしまう、私たちを見捨てるのではなく、その私たちの隣に来てくださるのです。イエス様は「わたしがここにいる。だから恐れることはない。安心しなさい」と語りかけてくださっているのです。イエス様は、おびえる弟子たちを励まされました。信仰に歩き出しながらも、風によって、ぐらつき、おびえる中で、目の前にイエス様がきても、それは幽霊だと、本当の救いが見えなくなっている者。そのような者をイエス様は励まし、「わたしがあなたと共にいる」と教えてくださっているのです。

 

4:  湖の上を歩き出したペトロ

 このイエス・キリストの励ましを受けて、ペトロは歩き出します。ペトロの歩き出した道。それは湖の上です。つまり、本来人間には歩けないはずの道であり、危険で、イエス様から目をそらせば、すぐに溺れてしまう道です。ペトロは、イエス・キリストを見つめて歩き出したのです。ここには、これまで船が逆風で進むことができず、悩み、脅え、恐れていた弟子ペトロが、イエス・キリストの「来なさい」という言葉に応えて歩き出した姿があります。イエス様が来てくださった。このキリストの恵みにペトロは歩き出したのです。イエス様を信じて従う道は、ある意味、このペトロの歩き出したような、湖の上のような、人間の常識を超えた道という事ができるのです。

 信仰の道。それはこの世界にあって逆風の中を歩くことであり、それは湖の上を歩き出すようなものかもしれません。これまで、自分中心に生きてきた人間が、イエス・キリストに出会い、神様のため、他者のために生きる。そのような人間の価値観を根底から変えてくださる業。それが福音です。このキリストによる福音を信じて、伝える道を歩き出すことは、武器を持たずに、戦場に行くようなものであり、食料を持たずに砂漠に歩き出すようなものです。実際、イエス様が弟子たちを派遣するときに、イエス様は【10:9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。】と教えて、弟子たちを派遣したのです。

 私たち東福岡教会は、今年度は「福音の種を蒔き続けよう」という標語を掲げています。そして、今年度の聖句として、【126:5 涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。126:6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。】とあります。イエス・キリストの福音を頂くことは喜びの出来事です。生きることに希望を見出す、神様からの最高の恵みです。しかしまた、この福音の種を蒔く、その道は、涙を伴う、苦しみの道なのです。いつもいつも喜びで満たされ、笑顔でいることができるほど、易しいものではないのです。

 

 ペトロは、恐れの中にあって、イエス・キリストに目を向けて、歩き出しました。ここに確かにペトロの新たな信仰があったのです。しかし、その信仰の歩みに、強い風が襲い掛かります。それこそ、これまでも見て来た、人間を神様から引き離そうとする、悪魔の風、悪魔の誘惑が襲い掛かってきたのです。ペトロは、この風を受け、その風に心を奪われてしまいました。そしてイエス様から目をそらしてしまったのです。ペトロがイエス様から目をそらした時、すぐに沈みだしました。この姿は、まさに私たちの信仰、そのものでしょう。イエス様が共にいてくださるという、神様の愛を受けとり、イエス・キリストに目を向け、恐れとおびえ、悩みの中にあって、イエス・キリストを見つめ、歩き出した。しかし、また、すぐに別のものに心を奪われてしまう。まさに、信じて、疑ってと繰り返す姿があるのです。

 私たちも、イエス様の恵みを受け、キリストに従おうと決心をしたとしても、その決心を奪い取るための悪魔の働きに、すぐに打ち負けてしまい、またイエス様を疑ってしまう。そして、そこにイエス様がきてくださり。それでまた歩き出す。イエス・キリストが共にいてくださると信じて歩き出す。しかし、それでもまた、恐れ、疑ってしまう。そのような信じる信仰と、誘惑による疑いが、繰り返されていくのです。

 

5:  捕まえて下さる方

 私たちの信仰は、「これで完璧だ」といったものになることはないのです。日々の生活の中で、ぐらつき、困難にぶつかり、心は折れてしまい、その中で、もう一度イエス様に目を向け、イエス・キリストがきてくださる恵みを受けていく。その繰り返しなのです。ここでペトロは【「主よ、助けてください」】(30)と叫んだのです。ペトロは沈みかけていく中で、ただ主イエス・キリストに「助けて」と叫びました。そして、イエス様は、ペトロを、手を伸ばして捕まえてくださったのです。信じて、疑い、喜び、泣き、安心し、不安になり、とそのような信仰の繰り返しの中、イエス・キリストは、私たちのことを、手を伸ばして、捕えてくださるのです。イエス様は、ぐらぐらであっちに行き、こっちに行きと迷いながらも「助けてください」と言う者に手を伸ばしてくださるのです。そこに本当の救いを見ることができるでしょう。

 わたしたちの人生において、時に、困難があり、時に抜け出すことができないような苦しみに出会うことがあるでしょう。しかし、そこにイエス・キリストによる導き、また祈りがあることを覚えたいと思うのです。その道は、イエス・キリストが、押し出してくださった道であり、イエス様は私たちのために祈り、その苦しみを通して、私たちの信仰を育ててくださる。そのイエス様の御心を信じて、ただイエス・キリストを見つめて歩いて行きたいと思うのです。

 この世に生きること。それは逆風のなか船をこぐようなことであり、湖の上を歩くような、自分では越えることのできない試練の繰り返しです。しかし、その試練の中にあって、いつも、イエス・キリストが祈り、共にいてくださり、手を差し伸べ、私たちを捕まえてくださっていることを覚えましょう。

 わたしたちにできること。それは、どのような恐れや不安、疑いの中にあっても、イエス様に目を向けること、そしてイエス様に「助けてください」と救いを求めること。ここに、私たちの信仰が育てられていくのです。誘惑に負けそうな時、不安に襲われている時、私たちはイエス・キリストに「助けてください」と祈りましょう。(笠井元)