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2020.2.23 「共に生きておられるイエス・キリスト」(全文) マタイによる福音書15:29-39

1:  山上の説教を思い起こす

 さて、今日の箇所を見ていきたいと思いますが、この物語はどこかで聞いたことがある・・・と思われた方も多いのではないでしょうか。今、マタイによる福音書を続けて読んできていますが、少し前マタイの14:13からのお話しで、イエス様が5つのパンと2匹の魚によって、5000人以上の人々を満腹にしたというお話がありました。また、その後の14:34からの箇所では、イエス様のもとに病人を連れてきて、その人たちをイエス様が癒していったというお話もあります。今日の箇所は、まず29節から癒しの話、そして32節からは、7つのパンと小さい魚少しばかりによって、男性だけで数えても4000人、実際は女性や子どもも入れて、その倍くらいの数の人々を満たされたのです。この癒しの話、また少ないパンと魚で多くの人々を満たしたというお話は、確かに14章にも、同じようなお話がありました。並行記事としてある、マルコによる福音書においても同様です。ただ、同じように並行福音書である、ルカによる福音書では、この二つ目の奇跡の話は省略されています。実は、マタイも、ルカも同様に、マルコによる福音書を知っていたとされ、そのうえで、福音書を記していったとされています。そのような意味では、ルカはこの二つ目の奇跡を省略し、しかし、マタイは省略しなかったのです。省略しなかったということは、マタイにはこの奇跡の記事、4000人を満たした奇跡の記事を残した意味があるということです。

 なぜここに14章と内容が重複するような奇跡の記事が記されたのでしょうか。そのことを読み解いていくための、一つのカギとなる言葉として、今日の最初の言葉29節に【「イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登って座っておられた」】という言葉があります。イエス様は「山に登って座れた」のです。イエス様は、これと同じことを、マタイによる福音書の5章、山上の説教の前になされました。5章1節では、【「5:1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、・・・」】とあるのですが、イエス様は、山上の説教として、神様の御言葉を語る前にも、同じように山に登り、そこに座ったのでした。マタイは、イエス様が同じ動作から始めることで、まず、山上の説教を思い起こすことを目指しているのです。

 山上の説教とは、イエス様が、神様に従い生きることの、本当の喜びと恵みを教えた言葉です。イエス様はマタイの5章から7章において、山上の説教として語られました。山上の説教の内容を一つずつ見ていく時間はありませんが、その内容を一言で言うと「律法の完成、成就のための教え」です。イエス様は、山上の説教において、「あなたがたも聞いている通り・・・と命じられている。しかしわたしは言っておく」と何度も語られます。イスラエルの民は、これまで神様の恵みを受け取るために、モーセの十戒を中心とした「律法」に従うように教えられてきました。しかしその律法は、神様の恵みに対する応答として行為ではなく、いつの間にか、その律法を行わなくてはならないと縛られてしまっていたのです。イエス様はそのような命令から解放してくださったのです。イエス様の教えは、これまでの律法から解放されていく言葉であり、同時に、イエス様は5章17節において【「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」】(17)とも語られました。イエス様は、律法を廃棄するのではなく、完成するために来られたのです。これまで教えられてきた律法の本質をもう一度、教えられた。ただ「・・・しなければならない」というところから解放し、「あなたがたは幸いである、あなたがたは・・・することが許されている」と、神様に従うことの本当の喜び、その恵みを教えられたのです。

 

2:  山上での行為

 イエス様は、山上の説教として、神様の救いの恵みを語りました。そして、今日の箇所では、神の救いの御業として、「癒し」と、「供食」という行為をなされたのです。つまり、イエス様は、病に苦しむ者、生きることに疲れた者、飢える者を癒し、満たされたのです。イエス様は30節から、癒しを行います。その癒しは、【「口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようにな」】るというものでした。この出来事は、イザヤ書35章5-6節において預言された出来事でした。イザヤではこのように言われます。【35:5 そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。35:6 そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。】(イザヤ35:5-6)イザヤのこの預言は、ただいつか預言者、癒し人が現れるということではなく、神の救いを与えるメシア、キリストが来られる出来事として語られた言葉でした。つまり、ここでイエス様が癒しを為されたということは、ただそこにいた人々の肉体的な病が癒されたということではなく、そこに救いの方、キリストが来られた、その心の底にある痛みや苦しみからのすべての重荷を解放されたことを意味しているのです。イエス様は、「口の利けない人が話すように、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるように」なされた、それはただ肉体的な癒しだけではなく、心と魂の癒しでもありました。苦しみの中にあり、心が荒れ野のように荒れ果てている者の心に、命の水を与え、川が流れるまでに心を癒してくださったということであるのです。

 

 続けて、イエス様は、32節からの場面において、飢える群衆のために食べ物を与えられたのです。イエス様はこのように言われました。【「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」】(32)「かわいそうだ」。それは別の言葉では「はらわたのちぎれる想いがする」と訳される言葉です。いわゆる「断腸の想い」という想いを表した言葉です。イエス様は、この群衆を見て、ご自身が激しい痛みを受け、張り裂けそうな苦しみの想いになられたのでした。

 このイエス様の言葉から読み取ることができるのは、この群衆が、ただ肉体的に空腹だった、おなかをすかしている、ということではなく、その心の中も飢えていたということです。人々は、人生に疲れていた。心が枯渇していた。だからこそ、イエス様のもとに来たのです。生きる道、生きる希望を求めて、イエス様のところにやってきたのです。イエス様は、その姿を見て、「断腸の想い」、ご自身が「張り裂けそうな苦しい想い」になられたのです。そして、その思いから、イエス様は人々にパンを与えられたのです。

 

3:  命のパン キリスト

 イエス様は、このような人々、口の利けない人、体の不自由な人、足の不自由な人、目が見えない人、そして心の底から飢えている人々を憐れまれたのです。そして、イエス・キリストは、この人々の為に、命をかけて、癒しをなされ、パンを与えられたのです。ヨハネによる福音書で、イエス様はこのように言われました。【「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』」】(ヨハネ6:35)イエス様の与えられたパン。それは、イエスが自らの命をかけて与えられたパン、つまり、十字架という苦しみと死において与えられた、命のパンなのです。イエス・キリストは、この十字架において、痛み、苦しみのなかに生きる人間のところまできてくださったのです。イエス・キリストによる救い。それは、神がインマヌエルなる方となられたということ、「我々と共におられる神」となられたということによって救いが与えられたのです。この時、人々は、心の底から人生に枯渇していました。つまり、生きる希望を失っていたのです。

 人生において、苦しいこと、その一つは一人であるということと言われます。それはただ一人暮らしであるとか、そのようなことではありません。心が誰とも、つながっている人がいないということです。つまり、「孤独」です。自分の思いを誰も知ろうともしてくれない。誰も知る事なんかできない。自分は一人だ。となるとき、私たちはとてつもない、むなしさに襲われるのではないでしょうか。自分は何のために生きているのだろうか。自分がいることを誰が喜んでくれるのか。もしかしたら、自分がいなくても、だれも何も思わないのではないか。そのように思いにとらわれる時、わたしたちは自分の存在価値がわからなくなってしまうのです。

 

 イエス・キリストが十字架において、「命のパン」となられたということ。それは、このような私たちの苦しみ、命の枯渇、孤独の中に来てくださったということです。神様は、「孤独」に襲われる私たちに「私があなたと共にいる」と言われるのです。

 わたしたちは今、イエス・キリストによる命のパンを必要としているでしょうか。この時、イエス様の元に来た群衆は、肉体的痛みに苦しみ、また心の底から飢えていたのです。そして、イエス・キリストによる救いを必要としてきたのでした。そして、その人々を神様は憐れまれ、手を差し伸べてくださったのです。私たちは、キリストによる救い、神様の憐れみを求めているでしょうか。

 神様は、苦しむ人間を憐れみ、イエス・キリストをこの世界に送って下さいました。神様は人間を愛し、その命をかけて、人間が喜びで生きることができるために、共に歩んでくださったのです。ここで言えば、病の人々を癒し、7つのパンと少量の魚によって、人々の心を満たされたのです。 私たちは、この神様の憐れみを受け取っていきたいと思うのです。

 

4:  弟子たちによって

 イエス様が裂かれたパンは、イエス様から弟子たちに渡され、そして弟子たちが群衆へと配っていくのです。イエス様は、十字架上で自らの体を裂き、私たちに命のパンを与えられたのです。私たちもまた、この恵みを受け取った者として、ここにある弟子たちのように、イエス・キリストという命のパンを配る者とされていきたいと思います。イエス・キリストの十字架の愛。それは、自分のところで留めておくものではありません。自分が受け取って、満足して、終わるものではないのです。弱い者が、愛されて、喜び、そこから動かされていくのです。

 幼稚園では、毎朝朝礼で、マザー・テレサの「日々の言葉」という本を読んでいます。本来1日1つの短い話なのですが、その中で、10月の言葉ですが、二日間かけて読むマザー・テレサの体験したお話がありました。少し長いのですが、ご紹介したいと思います。

 【忘れられないことですが、ある夜ひとりの紳士がやって来て、「8人の子どものいる家族がいて、このところ何も食べていない様子なので、彼らのために何かしてあげてください」と言いました。そこで私は、お米を持ってその家へと行きました。母親はお米を受け取ると、ふたつに分けて出て行ったのです。子どもたちの顔には飢えがはっきり表れていました。母親が戻ってきた時、どこに行っていたのかと尋ねました。彼女の答えは簡単でした。「あの人たちも、おなかをすかしているのです」“あの人たち”とはお隣の家族の事で、彼女は、彼らが何も食べていないことを知っていたのです。私は、彼女がお米を分けてあげたことに驚いたのではありません。彼女がその事実を知っていたということに驚かされました。分かち合う愛のあるこの母親の顔が幸せに輝いているのを見るのは、なんと素晴らしいことでしょう。私には、一体いつから何も食べていなかったのかを尋ねる勇気はとてもありませんでした。けれどかなり長い間であったことは確かでしょう。それなのに、この母親は彼女の苦しみの中で、悲しみの中で、肉体的なひどい苦痛の中でなお、隣の家族も飢えているということを知っていたのです。私たちは、周りの人たちが愛を必要としていることを知っているでしょうか?周りの人たちが助けを必要としていることを知っているでしょうか?この家族が示してくれた手本のように、神は、決して私たちのことを忘れたりなさいません。そして、そこにはいつでもあなたや私にできることが必ずあるのです。】(「マザー・テレサ日々の言葉」より)

 私たちの隣に、イエス・キリストが来てくださいました。イエス・キリストは、自らを裂き、命のパンとして私たちに命を与えてくださったのです。私たちは孤独ではなくなったのです。いつ、どこで、何をしていようとも、どのようなときも、必ずイエス・キリストが共にいてくださり、「わたしがあなたと共にいる」と語って下さるのです。私たちは、キリストがつなげてくださった。この神様とのつながりを広げる者とされていきたいと思います。主が共におられる。この恵みを伝え、共に喜び、共に生きる者とされていきましょう。(笠井元)