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2020.5.24 「愛するために起こされた奇跡」(全文) マタイによる福音書17:22-27

1:  人間の理解の限界

 今日の箇所では、まず、イエス様が2度目の「十字架と復活」の予告をされました。「十字架と復活」。この話を聞いて、「弟子たちは非常に悲しんだ」(23)のです。つまり、弟子たちは、イエス様が死なれるということはすぐ理解できたのですが、イエス様が復活されるということは理解できず、受け取れなかったということです。

 私たちは家族や友人、知人の死と向き合うということを、この世で体験します。ただ、だれかの復活に出会うということはないのではないでしょうか。復活は、私たちの心を変える出来事です。受け入れることができないわけではありません。しかし、私たちが頭で理解する限界を超えているとも言えます。弟子たちも、まず理解できたのは十字架、イエス様の死だったのです。 

 

2:  ペトロの判断

 この弟子たちのところ、ここでは代表してペトロとされますが、そこに神殿税を集める者たちがやってきて、【「あなたの先生は神殿税を納めないのか」】(24)と尋ねてきたのです。この問いは、ただ「税金を納めますか」、それとも「納めませんか」ということだけを意味するのではないのです。この時ユダヤの人々は、ローマ帝国によって支配されていました。「神殿税を納める」ということは、ユダヤ教を支持するということであり、また「神殿税を納めない」ということは、ローマ帝国を支持することを意味していました。ペトロはすぐに「神殿税を納めます」と答えました。このペトロの判断は自分の保身のためでもありました。 

 私たちはいったい何を基準に決断して生きているでしょうか。今は、世界中が新型コロナウイルスによって苦しみ、不安の中で生きています。そのような時に、それぞれの国のトップの人々は、多くが「自分のためだけ」または良くても「自分たちの国のため」だけを考えています。自分の利益、自分の立場が一番大切だとするのです。日本ではオリンピックが出来るかどうかや、今は、検事の定年についてと、国民の現実の思いとは、全く違うことばかりを話しあっています。また、それぞれの国家間では、この感染症がどこから発生したかをなすりつけ合い、ワクチンの情報を隠したり、盗んだり、手を合わせていくのではなく、現実で苦しむ人々の思いを全く考えないことばかりをしているのです。

 私は、自分自身もまた、この社会を批判できるほど、他者のことを考え生きることができるかといえば、そうではないので反省しなければと考えさせられます。皆さんは、何を基準として生きているでしょうか。そして、その結果として一体何を得ることができているでしょうか。少なくとも、この時のペトロは、隣人のために・・・という目線ではなく、自分の為に・・・という目線で「神殿税を納めます」と答えたのです。

 

3:  隣人を躓かせないために

 このペトロに対してイエス様は「彼らを躓かせないようにしよう」と言われるのです。今日の個所での主題は、イエス様が神殿税を支払ったかどうかということではありません。

 今日、聖書から学びたいことは二つあります。その一つは、イエス様が、私たちに神様に従って生きるための判断基準を教えてくださっているということです。そしてそれは「隣人を躓かせることのないように」、別の言葉でいうと「隣人の信仰が失われないために」または「隣人が神様から離れないように」、簡単に言えば、「隣人を愛して判断しなさい」と教えられているのです。イエス様が生きて下さった道は、まさにそのような道です。イエス・キリストは病人や、罪人とされる人々、社会でのけ者とされる人々と共に生きられたのです。そしてその従順の道は、十字架において完全なものとして示されました。イエス・キリストはまさに神様に従い生きられた。そしてそれは隣人を愛し、隣人を躓かせることのない道です。これこそ神様に従う道なのです。イエス様は「隣人を躓かせることのないように」生きるように、私たちに教えられているのです。

 

4:  愛するために起こされた奇跡 

 隣人を躓かせないために生きる。そのためにいつも生きることができれば、もはや何も言うことはないかもしれません。しかし、私たちは頭で理解していても、それがなかなか出来ない者です。ペトロも自己保身のために判断して答えました。私たち人間は、隣人のために生きることが、なかなか出来ない弱さを持っているのです。

 皆さんはいかがでしょうか。「隣人を大切にすること」を理解はしていても、それが「できない自分」という自分の弱さや欠点に、自分を愛せないことがあるのではないでしょうか。そのような私たちに、今日の箇所でイエス様は、魚の中から銀貨をくださったという、ユーモアのある行為をもって、人間の思いを超えた行為を起こされました。イエス様は、この行為を通して、隣人を愛することができない者のために、神様が奇跡の力をもって愛を与えてくださることを教えているのです。

 今日学びたいことの二つ目は、そのような自分の弱さに揺れる私たちの心に復活のイエス・キリストが来てくださり、愛してくださっているということです。神の子であるイエス・キリストは、この世に来て、十字架に死なれました。しかしそこで終わりませんでした。イエス・キリストは、復活されたのです。神様はイエス・キリストのよみがえりを通して、私たちが隣人を愛するという奇跡の力を与えてくださったのです。

 私たちができることは、自分の力で「隣人を愛する」のではなく、神様の奇跡の力によって、「愛する者とされていく」ということです。わたしたちは今、まず、神様に愛されているということを感謝したいと思います。そして、その神様の愛が私たちに注がれている奇跡の出来事を信じましょう。私たちにはできなくても、神様にはできるのです。私たちがすべきことは、この神様の愛を信じて、神様の御業がなされるように、委ねて生きることです。そこに、神様は必ず愛の御業を現わしてくださるでしょう。(笠井元)