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2024年

4月

24日

2024.4.24 「神の恵みを受け、熱心に歩み続ける」 ヘブライ人への手紙5:11-6:12

1:  耳が鈍くなっている人

 まず「このことについて」とありますが、今日の箇所の前には8節から、キリストは、多くの苦しみを受けられ、人間と神様を繋げる方、大祭司となられたことが語れます。しかし、この時の読者の耳が鈍くなっており、キリストによる救いを説明することが難しかったのです。読者はこれまで長時間の訓練が為されてきたとされますが、成長することはできておらず、「乳を必要とする者」と、むしろ後退してしまっているとするのです。耳が鈍くなっている者には「キリストの救い」をどれほど説明しても理解されることは難しいものです。

イエス様もこのように言われました。【聞く耳のある者は聞きなさい】(マルコ4:9)【イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』】(マタイ13:14-15

耳を開くこと、イエス・キリストが私たちのために苦しみ、救いの業を成し遂げてくださったということを信じて聞くことから、本当の成長が始まるのです。

 

2:  悔い改める勧め

 5、6節では【神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。】(6:5-6)とあります。

キリスト教では、「神様の無限の愛」「すべての人に与えられている救い」といったことが語られます。私たちは、この神様の愛、恵みに積極的に応答し続けることができているでしょうか。何をしても、何をしなくても、救いは与えられている・・・となってしまっていないでしょうか。パウロはこのように言いました。(Ⅰコリント6:12~20)私たちはキリストにおいて救いを得た者として、「自分の体で神の栄光を現す者」として生きていきたいと思います。

 ここでは、警告・願いとして「戻ることができなくなる」という厳しい言葉を使いながらも、「あなたがたは、今、まだ二度と戻ることができないところまで堕落しているわけではないのだから、戻ってきましょう。悔い改め、立ち帰ってきてください」と望みをもって教えていると読み取ることができるのです。私たちは恵みをいただいているのです。この恵みに応答して生きていきたいと思います。それは、自分のために生きるということから、神様のために生きるという生き方へと変えられるということです。

 

 

3:  熱心に歩み続ける

 9節では「愛する人たち」(9)と呼びかけます。この呼びかけはヘブライ人への手紙ではここだけとなります。この言葉からも、先ほどの警告が裁きを与えるのではなく、神様に立ち帰って欲しいとの願いを語っていることがわかるのです。

10節では、「神様の名のために示したあの愛」とあるように、これまでこの読者たちが神様、または「聖なる者たち」に仕える者であったことを示しているのです。私たちもですが、これまで為してきた、愛の働きを神様は一つとして忘れることはないのです。

ここでは「以前も」、そして、「今も」あなたがたは神様に従う者として、神様の愛を示す者、仕える者として働いていると言うのです。そして、11節では、【あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。】(ヘブライ6:11)と言います。これまで行ってきた、仕える奉仕を、同じだけの熱心さをもって、続けて欲しいと言うのです。

私たちも、現実の困難に疲弊し、神様を忘れてしまいそうな時があります。そのような時に、この言葉を思い起こし、もう一度熱心に仕える道を思い起こしたいと思います。

 

4:  信仰者として成熟する

 最後に6:1~2にあるように「成熟する」ということについて考えていきたいと思います。

信仰者が成熟するとはどのようなことなのでしょうか。エフェソ4章ではこのように言います。

4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。4:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、 4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。】(エフェソ4:13-16

 

ここでは、愛に根差して生きること、そして、それぞれがそれぞれの働きを担い、お互いに結び合わされて、教会として成長、成熟することを教えます。私たちが成長、成熟するのは、一人で行うことではないということです。私たちは、教会として、成長させられていくということをよく覚えておきたいと思います。 それぞれがそれぞれの役割を担い、共に、キリストに向かって歩んでいくことが、私たちの成長へと繋がるのです。この教会という単位での成長、成熟を願って歩んでいきたいと思います。

2024年

4月

19日

2024.4.21 「小さい者を受け入れる~価値観の変換~」(要約) ルカによる福音書9:46-48

1:  誰が偉いのかという議論

 弟子たちの中で、「自分たちの中で誰が偉いのか」という議論が起きました。なぜこのような議論が起こったのでしょうか。聖書には記されていないため、本当の理由は分かりませんがいくつかの理由が考えられます。ただ、原因が何であれ、弟子たちは偉くなりたいと思っていて、そのために、低く、小さい者となることも、そのような者たちを受け入れることも考えていなかったということがわかります。弟子たちはイエス様と共に歩いて、イエス様に派遣された者たちでした。しかし、弟子たちは、イエス様の伝えることを理解できていなかったということが分かるのです。

 

2:   偉くなろうとする社会

この世は競争社会です。小学校になると、テストの点数、成績と数字で表されるようになり、どんどんと競争が加速していきます。そこから「できる」「できない」ということだけを見て、できる人が勝ち組、できない人が負け組とされていくのです。47節ではイエス様が弟子たちの心を見抜いたとあります。弟子たちは、イエス様には「誰が偉いのか」という議論をしていることを知られたくはなかったのです。このような議論が恥ずかしく、間違っていることだとわかっていたのです。 私たちは自分の本心を隠して生きているのではないでしょうか。私たちの心の隅から隅まで見られるイエス様の目に耐えることが出来るでしょうか。

  

3:  価値観の転換

 イエス様は「自分自身の弱さも含めて、人間の弱さ、小ささを受け入れる者となりなさい」と教えます。これは、これまでの価値観を捨て、新しい価値観を持つことを教えているのです。人間は自分と他者を比べる価値観に生きています。これは結局、自分の栄光を求めた価値観であり、一言で言えば、自己中心な価値観なのです。イエス様は、そのような価値観を持つ人間に、大きいとか小さいとか、強いとか弱いとか、何かが出来るとかできないということではなく、ただ、その存在を喜び、愛するという価値観を教えているのです。

 

4:  イエス・キリストの選ばれた道

 

 イエス・キリストは、神であり、神の子でありながらも、この世界に人間として来られたのです。それは「誰が偉いのか」という争いをする者たち、心には、自分中心の思いしか持たない人間の所に来て下さったということです。イエス様はその心の隅から隅まで知ったうえで、人間を愛し、同じ人間となられたのです。イエス様は、この競い合い、争いばかりを起こしている社会、そして私たち一人ひとりの隣に来てくださったのです。これこそ、イエス・キリストが、選ばれた道でした。神様は、私たちにこの価値観を持って生きて欲しいと願っておられるのです。私たちは、今持っている価値観から、このイエス・キリストによって示された価値観を受けて従っていきましょう。(笠井元)

2024年

4月

19日

2024.4.21 「小さい者を受け入れる~価値観の変換~」(全文) ルカによる福音書9:46-48

1:  誰が偉いのかという議論

今日の箇所は、弟子たちの中で、「自分たちの中で誰が偉いのか」という議論が起きたことから始まります。なぜこのような議論が起こったのかは、聖書には記されていないため、本当の理由は分かりませんが、この9章のこれまでの出来事から、いくつかその理由が考えられます。

まず、9章28節からの場面では、イエス様の姿が変わるという出来事が起こりました。これはイエス様が栄光の姿に変えられた場面とも言うことができるでしょう。このときに、山について行ったのが、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人であったのです。またもう少し遡り、8章49節以下に記されている、死んだ会堂長の娘が起こされる場面でも、この三人ペトロ、ヨハネ、ヤコブがイエス様と共にいたのでした。このような三人の特別な経験から、この三人は、自分たちがイエス様から特に大事にされていて、「自分たちが偉いのだ」と思い上がっていたとも考えられます。または、逆に、このようなことから、他の弟子たちが、この三人に対して、嫉妬し、「自分たちこそイエス様の弟子である」と張り合い、競い合う中で、誰が偉いのかという議論が始まったのではないかと考えられます。

 また、別の理解としては、このイエス様の姿が変わるという場面の後、9章37節からの場面では、悪霊を追い出すことのできない弟子たちがいたのです。そこではイエス様が「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(ルカ9:41)と言われました。このような中で、弟子たちが自分たちの弱さ、無力さを感じ、弟子たちの中で「誰が強く、誰が偉く、誰が力がない」といった、言い争いが起こったとも考えられます。

また、今日の箇所の前、9章43節からの場面では、イエス様が自らの死の予告をしたのですが、そのことを弟子たちは理解できず、それだけではなく、怖くてその言葉がどのような意味があるのか尋ねることすらできなかったとあるのです。そのような意味で、イエス様がいなくなってしまうかもしれないという恐れから、混乱と不安が生まれ、「自分たちは大丈夫だ」、「自分たちは強い」と思おうとする中で、結果、「では誰が一番なのか・・・」といった、強がりのようなところから、この「誰が偉いのか」という議論が生まれたとも考えられます。

 

これらはあくまでも推測ですし、この議論の発端、原因としてはいくつかの理由が考えられます。 ただ、原因が何であれ、確実にわかるのは、このあとイエス様が子どもをそばに立たせて言われた言葉、・・・「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(ルカ9:48)という言葉から、弟子たちは偉くなりたかったということ、そしてそのために、低く、小さい者となるのでも、また、そのような者たちを受け入れるといったことを考えていたのでもなかったということがわかるのです。これまで、イエス様は、罪ある者、弱い者、社会からつまはじきにされた者のところに行き、共に生きてこられたのです。この時の弟子たちは、これまでイエス様と共に歩んできながらも、イエス様のことを全く理解できていなかった。弟子たちはイエス様と共に歩いてきて、イエス様に派遣された者たちでもありました。しかし、その弟子たちは、小さな者となることも、小さな者を受け入れることも、全く理解せず、イエス様に従うこと、イエス様の伝えることを理解できていなかったということが分かるのです。

 

2:   偉くなろうとする社会

 私は、小さい頃に聖書を読んでいた中では、このような弟子たちの失敗、弟子たちの間違いの姿を聞いたときに、「自分だったらこんなことはしないのに」「イエス様の弟子たちはなんでこんなことばかりするのだろう」「そんなに偉くなりたいものなのかな」と思っていました。そして、このような聖書箇所からは「このような弟子のようにはならないように」と学ぶものだと考えていました。ただ、今思えば、そのように思っている自分自身こそ、驕り高ぶっていたのだと思うのです。弟子たちと自分を比べて、自分は弟子たちよりもイエス様をよく理解していると思い、イエス様にきちんと従っていることが出来ている、と思っていたのでしょう。まさに私自身、この時の弟子たちと同じ状態で、「自分の方が偉い」と思っていたとも言える状態にあったのです。 

この世は競争社会です。この教会は附属の幼稚園がありますが、まだ、幼稚園の園児には成績はありませんが、ただ、それでも、時に、保護者でも、先生でも、子どもと子どもを比べて見てしまうことがあります。これが、小学校になると、テストの点数、成績と数字で表されるようになり、どんどんと競争が加速していきます。もちろん、競い合うことで、能力を伸ばすこともできるでしょうし、自分にとって得意なこと、不得意なことがわかりやすくなり、自分がしたいこと、できること、これから生きていくうえで、必要なことなどが分かりやすくなっていくという意味では、競争することも、数字で表されることも、すべてが悪いことではないとも思うのです。ただ、そこから、その成績、「できる」「できない」ということだけを見て、その人を判断するようになり、できる人が勝ち組、できない人が負け組とされ、いつの間にか、できる人ができない人をいじめたり、差別をしたりとするようになっていくことがある。そのような意味での競争社会には大きな問題があるでしょう。そのような競争社会では、自分と誰かを比べて、自分の方が優れていると思い、そこから安心感を得たり、または高慢になっていく。または、自分と誰かを比べて、自分の方が、できていないと思う中で、劣等感を持つようになったり、そこから、自分の生きる価値を見失ってしまう。そのようなことに繋がってしまうのです。

 皆さんはいかがでしょうか。この競争社会において、いつも誰かと比較され、評価される。そのような中にあって、私たちは誰もが、他者より偉くなること、力を持つこと、権威、権力、財産といったものを求め、誰かよりも、強く、偉くなること、「勝ち組」となることを求めてしまっているのではないでしょうか。そして、そこに自分の存在価値を見出そうとしていないでしょうか。

 

ここでは、47節で、イエス様が弟子たちの心を見抜いたとあります。この言葉から見ると、弟子たちはイエス様がいないところで、この議論を行い、イエス様が来たらその議論をしないようにしていたと考えられるのです。弟子たちは、イエス様には、この「誰が偉いのか」という議論をしていることを知られたくはなかったのでしょう。私たちもだと思うのですが、心の中では「自分の方があなたより偉い」と思っていても、他者から、そのように言われることを喜ぶことはあっても、自分から「自分はあなたより強いんだ」「自分はあなたより偉いんだ」と、公に言いふらす人はあまりいないと思うのです。むしろ、そのようなことをすること自体が、恥ずかしく、間違っている者、弱い者だと思うこともあるでしょう。私たちの、実際に行っていることと、心の思いはすべてが同じではないのです。むしろ、私たちは自分の心を隠して生きているのではないでしょうか。ここではイエス様は、その心を見抜かれること、私たちが隠している心を見ておられることが記されているのです。皆さんは、このイエス様の目、私たちのその心の隅から隅まで見られる目に耐えることが出来るでしょうか。

 

3:  小さい者を受け入れる者となる 価値観の変換

 この「誰が一番偉いのか」という議論をしていた弟子たちの心を見られたイエス様は、一人の子どもの手を取り・・・「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(ルカ9:48)と言われたのです。

現代では、子どもといえば、一人の人間として、その人格を大切にし、権利を持っているとして受けいれることが考えられています。しかし、当時のユダヤの社会において、子どもというのは、とても小さく、弱い存在と考えられていました。子どもに関わり時間を費やすことは、怠けてお昼からお酒を飲んでいるような状態と同じだとされていたのです。つまり子どもに関わることは無意味なこと、時間の無駄、その存在は一人の人間としては認められない者とされていたのです。イエス様は、「このような小さな者を受け入れる者となりなさい」と教えられたのです。これはただ、子どもを受け入れ、大切にすることだけを求めた言葉ではないのです。このイエス様の言葉は、「この子どものように、小さいとされている者、小さく弱いとされている者こそを大切にすること。それは、自分自身の弱さも含めてですが・・・そのような人間の弱さ、小ささ、不完全さ、失敗を受け入れる者となりなさい。そのような価値観を持つ者となりなさい」と教えているのです。

 これは、これまでの価値観を捨て、新しい価値観を持つことを教えているのです。先ほど言いましたが、この社会にあって、人間は、自分と他者を比べ、そこから、自分が優れている、優れていないというところを見てしまい、そこから、自分の存在価値を見出していく、そして逆に、そこから自分の存在価値を見失ってしまう。そのような価値観に生きているのです。 これは結局、自分の栄光を求めた価値観であり、一言で言えば、自己中心の価値観、自分さえよければよいという価値観なのです。イエス様は、そのような価値観を持つ人間に、新しい価値観を持つように教えるのです。それは【この子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。】(9:48)とあるように、・・・自分ではなく、小さい者を受け入れる価値観。それは、自分自身の弱さをも受け入れる価値観。そしてそれはイエス・キリストを受け入れる価値観。そして、ここでは「わたしをお遣わしになった方」とありますが、イエス・キリストをこの世に送ってくださった神様を受け入れる価値観を持つことを教えます。つまり、大きいとか小さいとか、強いとか弱いとか、何かが出来るとかできないということではなく、・・・ただただ、その存在を喜び、愛するという価値観を教えているのです。

 

4:  イエス・キリストの選ばれた道

 イエス・キリストの選ばれた道。イエス・キリストは、神であり、神の子でありながらも、この世界に、人間として来られたのです。それは、「誰が偉いのか」という争いをする者たち、心には、自分中心の思いしか持たない人間の所に、来て下さったということです。

 神様からすれば、そのような自分のことばかり考えている人間は、とても弱く、自分勝手な者でしかないはずです。しかし、神様は、その心の隅から隅まで、見たうえで、人間を愛し、同じ人間となられたのです。イエス様は「誰が偉いのか」と争う中に来てくださった。ただ、遠くから「このようにしなさい」と教えられるのではなく、まず自分自身が、この競い合い、争いばかりを起こしている社会、そして私たち一人ひとりの隣に来てくださったのです。これが、イエス・キリストが、選ばれた道でした。このことを聖書ではこのように言います

【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。】(フィリピ2:6-8

イエス・キリストは、どこまでもへりくだり、どこまでも小さな者となられた。これが、神様の示された、私たちへの愛であり、神様は、この価値観を持って、私たちに、生きて欲しいと願っておられるのです。

 イエス様は、「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(9:48)と言われました。これがイエス様の選ばれた生きる道です。イエス様は、争いの絶えない、この世界に、「愛する者たち。争うこと、競い合うことではなく、お互いの弱さを受け入れ、支え合う者、愛し合う者となって欲しい」と願い求められている。イエス・キリストこそが、最も小さい者となってくださった。私たちは、今持っている価値観から、このイエス・キリストによって示された価値観を受けて、新しい価値観を受け取って、従っていきたいと思うのです。

 最後にニューヨークのリハビリテーションセンターの壁に書かれた詩を読んで終わりたいと思います。

 

成功するために、強さを与えてほしいと、神に求めたのに、

謙虚さと従うことを学ぶようにと、弱さを授かった。

偉大なことができるようにと、健康を求めたのに、

より良いことができるようにと、病弱を与えられた。

幸せになるために、富を求めたのに、

賢明であるようにと、貧困を授かった。

世の人々の称賛を得ようとして、権力を求めたのに、

神を求め続けるようにと、弱さを与えられた。

人生を楽しめるようにと、あらゆるものを求めたのに、

あらゆることを喜べるようにと、命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、

願いはすべて聞き届けられた。

神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、

言葉に出さなかった祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人々のなかで、もっとも豊かに祝福された。

 

(笠井元)

2024年

4月

13日

2024.4.14 「信仰の劇的転換ーキリストのいのちに生きるー」(全文) ヨハネによる福音書2:1-11

 ヨハネによる福音書のこの個所からは2014511日に説教しており、当日は幼稚園の保護者の方々の出席が予想されましから、比較的優しくお話しました。私の伝道者人生の結晶のような処もありましたので、興味のおありの方は当教会のホームページの当日の原稿をお読みください。キリストは復活の輝きと十字架の栄光(11節ドクサ)から振り返って見て、どのようなお方であったのか、「最初のしるし」をお示しになられました。イエス様は「いのち」そのものであり、私たちはこのお方に繋がっていのちの喜びに生きるように招かれています。

 

1.場面設定

 物語の場面ですが、「三日目に」とあります。1章29節には「その翌日」とあり、35節にも「その翌日」とあり、43節にも「その翌日」とあり、ここで「三日目」というのですからかなり象徴的なものです。「三日目」というとイエス様の復活の日を思い起こさせます。私たちを襲う不条理なこと、理不尽なこと、悲しみや孤独の陰がどうであれ、主イエス様のいのちの輝きに打ち勝つことはできません。私たちは復活節第三主日を迎えています。婚礼があったということですから、たぶん秋の季節でしょう。場所はガリラヤのカナでのことです。カナはイエス様の出身地ナザレの北約13キロの村です。徒歩で3時間くらいでしょうか。

 

2.婚礼があった

 そこで婚礼があったということです。私はここから8キロ西の百道浜に住んでいますが、結構浜辺でウエディングドレスを着こんだ二人が写真撮影をしているのを目にします。もう周りの世界が見えていないというか、自己陶酔的な派手な衣装の二人やカメラマンの姿を見ていますと微笑ましい想いがします。自分たちにもあんな時があったのかなあと思い出します。婚礼の時は人生のひとつの「ゴール」ということでしょうか。結婚式の挙げ方というような雑誌がかなり売れているようですね。しかし、結婚式が一つのゴールであれば、あとは下る一方なのでしょうか。多分、若さや瑞々しさは少しづつ下降線なのでしょう。今月はピカピカの紺色のスーツを着た若い男女が歩いていました。三人の娘さんが私の前を歩いていましたがその中の一人がセンターベンツのしつけ糸を取っていないので、「お嬢さん、しつけ糸がついていますよ」というと「キャー!」と言って、「お爺さん今手で取っても大丈夫ですか?」と聞くので学校か会社に着いたらハサミで切った方が良いよ」と答えておきました。若い娘さんたち、息子さんたちを送り出す背後の親の寂しさも感じますが、若いというのはそれだけで輝いているものです。しかし、やがて「葡萄酒がなくなった!」と言うような羽目になるのでしょうか。

話が少し逸れましたが、「イエスの母」、マリアが招かれてそこに列席していました。神の祝福は結婚と結婚生活だけではなく、他者とともに、しかし、一人で生きることもまた祝福であることを聖書は語っていますので、結婚をいたずらに美化する必要はありません。しかし、その華やぎを揶揄する必要もないでしょう。ガリラヤのカナで婚礼があってイエスの母がそこにいたのです。

 

3. 母マリア

  今回メッセージを準備するために何度もこの個所を読み直しましたが。このように2章の最初にイエスの母マリアが登場することに驚きました。「マリア」という名は登場しませんが、「イエスの母がそこにいた。」「母がイエスに言った。」「イエスは母に言われた。」「しかし、母は召使たちに言った。」と繰り返されています。「マドンナ」への信仰です。先日、元西南高校の日本史の教員であった伊原幹治さんとお話をしました。彼はフランスから出発し、ピレネー山脈を越えて、スペインの西のはずれ、サンチエゴ・デ・コンポステーラまでの巡礼路を歩いた経験から、「松見さん、どうして西欧州にはあれほどマリアさんの像があり、マリア信仰があるのでしょうか?教会の正面には大きなマリア像があり、脇に小さなキリスト磔刑像しかないような教会もあるんです。マリア信仰のない私はショックで、心というか信仰が揺さぶられました」というのです。九州バプテスト神学校の中年男性生徒も私のクラスで「欧州カソリック教会のマリア崇拝の広がりついて」質問されたことがありました。イエス・キリストが神であることが強調され、キリストが限りなく神の傍らに近づいて感じられると、マリア様にお願いしてイエス様に執り成してもらいたくなる。そして、次にマリア様が神の母として神の傍らにおられると感じられると今度は守護聖人にお願いするようになった。人は慈母観音ではないですが、傍らにいてくれる慈愛に満ちた執り成し手を必要としているのじゃないですか。ただプロテスタントの場合、イエス様が私たちの傍らにおられ、聖霊も母のようにわたしたちの内にいてくださるし、そして、私には父なる神も母性を持たれているように感じられるけど」というと伊原先生も「そうだよね!」ということでした。

 

4.母への主イエスの深い愛の想い

話を進めて主イエスのマリアへの深い愛の労わりについて光を当てましょう。マリアは主イエスに「ぶどう酒がなくなった」旨を伝えます。欠乏を知って神の前に立つ。これが信仰の精神です。イエスは答えます。「婦人よ、あなたは、わたしと、どんなかかわりがありますか。わたしの時はまだきていません」。聖書学者によると、「婦人よ」という呼びかけは当時の丁寧な言い方であって、決して冷たい言葉ではないそうですが、やはり、どこか厳しい響きです。しかし、私には主イエスの深い愛の言葉であるように思います。やがて主イエスは母マリアを残して十字架で死ぬことになるのです。イエスは、今後は、単に、マリアの子、肉親の親子関係としてだけでなく、父なる神のみ子として行動されなくてはならないのです。二人の間には断絶と別離の影が差し始めます。実は人間、その深さの度合いは別にしても、誰しもこの断絶と別離を経験するのではないでしょうか。主イエスは、ここでマリアを突き放して、一人の人間として呼び掛けるのです。「お母さん、自然の愛情でもう私を見てはいけません。私には私の時があり、神が定めた時に行動せねばならないのです。それはたとえ、母と言えども、決して越えてはならないのです」と。やがて到来する十字架での別れの準備をさせるこの言葉は、イエスの母に対する本当の愛ではないかと思います。30数歳で「やもめ」になるマリアです。

 

5.マリア:主イエスの働きの道備え、そして、人間に出来ること

しかし、マリアはこの突き放しに対して信頼をもって応えるのです。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」(5節)。こうして主イエスは母のために配慮をし、そしてマリアはイエスの道備えをするのです。信仰はまさに、待つことです。待つことによって自分の願い、相手にも自分にも本当に何が必要なのか知るのです。人間同士、親子関係、そして神と人間の間には、互いに、どんなに親しくとも、「待つ」という距離感が必要なのではないでしょうか。実はバプテスマのヨハネに続き、マリアも到来する主イエスの道備えをする人なのです。

 そして人間のできることは甕一杯に水を満たすことです。人は水を葡萄酒に変えることなどできません。そのような幻想は捨てねばなりません。いかにAIが発達してもできないでしょう。私たちのできることは、水瓶の縁までせっせと水をくみ入れることです。結婚生活も、子育ても、仕事も、勉強も、教会生活も、そのような地味な働きであるかも知れません。しかし、イエス様のお働きのためにコツコツ準備して待つことはできるのではないでしょうか。

 

6.宗教の劇的転換

いよいよ物語は頂点に達します。先回は礼拝の劇的転換という題で2章13節以下からメッセージをお伝えしました。今回は宗教、あるいは、信仰の劇的転換として物語の最終的意味について考えてみます。カナのこの家にはユダヤ教の伝統に従い、二ないし三メトレテス、約80リットルでしょうか、大きな石の水がめが六つ置いてありました。(6節)「清めに用いる」とありますので、飲料や食事の調理用ではないのでしょう。ユダヤ地方は乾燥している風土、地理的条件のために、更に、外から帰ると纏いついた「穢れを洗い落とすために」必ず水で身を清めるという宗教的理由のためのものでした。この当時のユダヤ教が外から「汚れることを恐れる宗教」であったとすれば、主イエスの教えは、「溢れる喜びに生きる道」であると言ってよいでしょう。

 主イエスは、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と召使いたちに命じます。そして、「さあ、それをくんで、宴会の世話役のところに持って行きなさい」と言われます。すると途中で水がぶどう酒に変わっていたのです。人間の力、人間の喜びが尽きる時、神が力と喜びを創造して下さるのです!宗教の劇的転換です。人生すべてが下り坂ではむなしいではないですか。人間少しずつ年を取ると円熟するかというと、そうではなく、益々頑固になり、地金が出てくるのです。堪え性がなくなるわけですから大変です。結婚も最初は良いが、あとは下り坂というのでは寂しいです。「世話役は、ぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」

ここで、私たちは、人生の選択の岐路に立たされます。もういい加減に酔っているのでその場を悪いもので取り繕うか? 或いは、水をぶどう酒に変えていただき、日々全く新しいものを神から頂くか?の「あれか、これか」です。私の教え子で名古屋の瑞穂教会の牧師をしている人がいますが、彼がある時笑っていました。先生は娘さんと親子でいつもエネルギドリンク「リアル ゴールド」を飲んでいますね!まあエネルギーは無尽蔵ではないですからね。先週5日私は急性胆管炎で胆管に管を入れる緊急手術入院をしました。39度5分の熱も下がりましたので8日月曜に退院してきました。胆汁が肝臓に逆流したのでしょう、医者が飛び上がるほどの酷い黄疸でした。黄疸がなくなったら胆嚢摘出手術をすることになりましたが、人は自分の中に命を持っているのではありません。生きているのではなく、生かされているという当たり前のことを知らされました。人間は実は神様から生かされているのです。私のような者、皆さんも生かされているのです。信じがたいことは、自分の力で生きていると錯覚し、感謝もなく、貧しく生きていることではないでしょうか!「酔いがまわったころに劣ったものをだすものだ」が常識だと開き直って生きていてはなりません。誰しも「ぶどう酒がなくなりました」という現実に直面するのです。そのとき、穢れに怯える生き方をしていると、自己中心的であるゆえに自分自身が揺さぶられると、狼狽えてしまう私たちです。しかし、「待つこと」だけでなく、死者の中から引き上げられ、溢れる赦しと慈しみ、喜びの源であるイエス様が私たちの傍らにおられるとは何と素晴らしいことでしょうか。

 

「そして弟子たちはイエスを信じた」と言われています。私たちもいのちの主、溢れる喜びの源である主に信頼して生きましょう。(松見俊)

2024年

4月

13日

2024.4.14 「信仰の劇的転換ーキリストのいのちに生きるー」(要約) ヨハネによる福音書2:1-11

 キリストはカナで「最初のしるし」をお示しになられました。イエス様は「いのち」そのものであり、私たちはこのお方に繋がっていのちの喜びに生きるように招かれています。

 

1.場面設定:ガリラヤのカナでのことです。カナはイエス様の出身地ナザレの北約13キロの村です。「三日目に」というとイエス様の復活の日を思い起こさせます。私たちを襲う不条理なこと、理不尽なこと、悲しみや孤独の陰がどうであれ、それらは主イエス様のいのちの輝きに打ち勝つことはできません。私たちは復活節第三主日を迎えています。婚礼があったということですから、たぶん秋の季節でしょう。

 

2.婚礼があった:婚礼の時は人生のひとつの「ゴール」ということでしょうか。しかし、結婚式が一つのゴールであれば、あとは下る一方なのでしょうか。多分、若さや瑞々しさは少しずつ下降線なのでしょう。やがて「葡萄酒がなくなった!」と言うような羽目になるのでしょうか。「イエスの母」、マリアが招かれてそこに列席していました。

 

3. 母マリア:「マリア」という名は登場しませんが、「母」が繰り返されます。「マドンナ」への信仰の芽生えでしょうか?西欧のキリスト教には、「マリア」信仰が拡がっています。キリストが神であることが強調され、限りなく神の側に感じられると、マリア様にお願いしてイエス様に執り成してもらいたくなる。慈母観音ではないですが、人は傍らにいてくれる慈愛に満ちた執り成し手を必要としているのでしょうか。

 

4.母への主イエスの深い愛の想い:マリアは息子イエスに「ぶどう酒がなくなった」と伝えます。欠乏を知って神の前に立つ。これが信仰の精神です。イエスは答えます。「婦人よ、あなたは、わたしと、どんなかかわりがありますか。わたしの時はまだきていません」。やがて主イエスは母マリアを残して十字架で死ぬことになるので「お母さん、自然の愛情でもう私を見てはいけません。私には私の時があり、神が定めた時に行動せねばならないのです。」と、やがて到来する十字架での別れの準備をさせるこの言葉は、イエスの母に対する配慮です。しかし、マリアはこの突き放しに対して信頼をもって応えるのです。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」(5節)。こうして主イエスは母のために配慮をし、そしてマリアはイエスの道備えをするのです。マリアを初め人間のできることは甕一杯に水を満たすことです。

 

 5.宗教・信仰の劇的転換:この家には、ユダヤ教の伝統に従い、二ないし三メトレテス、約80リットルでしょうか、大きな石の水がめが六つ置いてあります。(6節)「清めに用いる」とあります。当時のユダヤ教が外から「汚れることを恐れる宗教」であったとすれば、主イエスの教えは、「溢れる喜びに生きる道」であると言ってよいでしょう。いい加減に酔っているのでその場を劣ったもので取り繕うか? 或いは、水をぶどう酒に変えていただき、日々全く新しいものを神から頂くか?の「あれか、これか」が問われています。(松見俊)