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2024年

9月

28日

2024.9.29 「神様の求めている生き方」(全文) ミカ書6:6-8

1:  召天者記念礼拝

今日は召天者記念礼拝となります。神様は、御心のうちに、私たち一人一人を創造し、そしていつの日か、その命を御許に召されます。それが神様の御業です。神様は愛をもって人間を造られました。そしてその愛の御業をもって、人間を御許に召されるのでしょう。私自身、今年は、「命」と「死」について考えさせられることが多くありました。「死」は一言で言いますと、先ほども言いましたが、神様の愛の御許に召される時となります。私たち人間は、神様に造られ、そして神様の御許へと帰っていくのです。「死」はどれほど偉大な人物であろうとも、すべての人間に必ず訪れます。どれほどの財力、権力、能力をもってしても、死から逃れることはできません。またそれは、この世でどれほど、弱く、小さいとされていたとしてもです。死は、すべての人に平等に与えられます。そのような意味では、「死」は、とても日常的で、いつもどこかで起こっていることとされます。ほとんどの人間は、そのことを知っているでしょう。ただ、私たちは「死」については、日常的にはあまり考えようとはしないのです。それは「死」というものが、恐ろしく、悲しすぎるからでしょうか。最近は「終活」をすることが勧められ、「エンディングノート」といったものを使い、葬儀の方法、財産の振り分けなどを考えることも勧められています。ただ、これは自分の「死」と向き合うというよりも、残された家族を想い、そのために行うこととなります。私たちにとって「死」は日常的なものではないでしょう。私たちは、親しい人の死を喜ぶことはなかなかできません。死は私たちには、耐えがたい、悲しみと苦しみをもたらします。そのような意味では「死」はあって欲しくはないこと、受け入れがたい現実なのです。

キリスト教は、イエス・キリストがこの「死」に勝利されたことから、すべてが始まったのです。イエス・キリストは、この死を越えて、私たちと共にいてくださる方となられたのです。それは、日々、どれほどの絶望、困難に直面したとしても、キリストは、その絶望を越えて、私たちと共にいて下さる方となられたということです。神様の愛は、この「死」にさえも、飲み込まれることはない。神様の愛は、どこまでも、それこそすべての人に与えられている。そして、それは永遠に絶えることはないのです。そのように考えますと、「死」は悲しいことでもありますが、そのとき、私たちの隣には、イエス・キリストがいて下さる。つまり、「死」は、すべての人に与えられていると、同時に、「死」を越えて、神様の愛が、すべての人に与えられているのです。ここに神様の愛の出来事があるのです。

 今日は召天者記念礼拝となります。ここには召された方々の写真が置かれていますが、この写真を見て、皆さんはどのようなことを思い起こされるでしょうか。この時に、私たちは「あの人は、あのような方だったな~」とか「あんなことがあったな~」と思い起こすことができるでしょう。 今日は、その中でも、この召された方々、信仰の先達の方々を愛し、導いてくださった、神様へと目を向けていきたいと思うのです。神様は、この召された方々をどのように思われているのか。この世に命を与えられる前から、そして、この地上に生きている時、そして今、神様の御許においてある時。この神様の思いに、私たちは耳を傾けていきたいと思います。そして、私たち自身がどのように生きるべきなのか、今一度考える時としていきたいと思います。

 

2:  何をもって主の前に出るのか

今日の箇所6節、7節ではこのようにあります。【何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。】(ミカ6:6-7

 ここでは、何をもって神様の御前に出るべきかが問われています。ここでは「当歳の子牛だろうか」、それとも「幾千の雄羊だろうか」、それとも「幾万の油の流れだろうか」と問いかけ、最後には、「長子」、「胎の実」、つまり「わが子」だろうかと問いかけているのです。実際にイスラエルの王、アハズ王はあまりの不安からわが子を神に捧げたと言われています。これは異教の習慣であり、キリスト教ではイエス・キリストによって、あらゆる犠牲が、もはや必要のないものとされたのです。しかし、人間は不安、絶望の中では、わが子を犠牲にしてまでも、自分の力でどうにかしようとしてしまうのです。この6節、7節では、この問いかけはなされていますが、その答えは記されてはいません。ただここで言いたいことは、神様は「何かを持ってくること、何か献げものを求めてはいない」ということです。神様が求めているものは私たちが持っている何かではなく、「わたし」自身であり、「あなた」自身であります。私たちは、何かを持っていなければ、神様の前に出ることができないのではないのです。何も持たなくてよい。私たちが持つべき献げものは、すでに神様が用意してくださった。イエス・キリストのみです。この神様が私たちを愛してくださっている。そして、このイエス・キリストによって愛を注がれている、私たち自身、「わたし」であり「あなた」を求めておられると教えるのです。

 

 

3:  神様の求められている道

 続けて、8節ではこのように教えます。【人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。】ここで、私たちがなすべきことは、もうすでに教えられているとします。そしてそれは「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」だとします。私たち人間の生き方は様々です。色々な仕事があり、趣味があり、色々なことを喜んで、また時には苦しいながらにも、様々な形で生きています。神様は、その私たちの存在を、「良し」としてくださるのです。その神様の愛が注がれている、私たちに、神様は「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩むこと」を期待されているのです。このことはすでに告げられているのです。そしてこのことは、実は、私たちもどこかで感じ取っているのではないかとも思うのです。 

 キリスト教では神様の愛、そして隣人を愛することを語ります。ただ、この日本にキリスト教を信じる者は1パーセントにも満たないのです。日本という国は、ほとんどの人が宗教を持たない、神様を信じないという国であり、そのような社会となっています。それでも、神様を信じないながらにも、根拠は何もありませんが、社会の道徳、倫理として、人に親切にすること、やさしくすること、弱い立場の人を大切にすることなどを教えます。大人は子どもに「一緒に生きることの大切さ」を教えるのです。このことに「なんで」と子どもが聞き続ける時、私たちは答えることができるでしょうか。なぜ、隣人を大切にしなければならないのか。人を傷つけてはいけないのか。なぜ・・・どうして・・・と考えれば考えるほど、その根拠がわからなくなるのです。神様という存在、その愛がなければ、隣の人を大切にする根拠はないのです。

だからこそでしょう。障がいを持つ者を傷つけ、殺害するといった悲しい事件も起こるのです。2016年には相模原で多くの障がい者が殺害されたという事件が起きました。その後も、その事件を起こした者は、「自分は間違っていない」「社会のためにしたのだ」と言っているのです。このような事件に対して、ニュースでは、この者の考え方は間違っているとしながらも、・・・なぜなのかといった時に、何と答えてよいのかわからなくなっていた方もおられました。ただ、神様を信じなくても、根拠は何もありませんが、社会の道徳、倫理として、人に親切にすること、やさしくすることを、必要だとするのです。それは、ある意味、人間の心のどこかには、「正義を行い、慈しみを愛する」ことが必要だと感じ取っているのではないかと思うのです。ただ、99パーセントの人が神様を認めず、神様の愛を認めず、受け入れないのです。なぜでしょうか。それは、神様という存在を知らないのではなく、拒否している、または恐れていると言ってもいいかもしれません。 

人間はあれこれと理屈を重ねて、神様を信じようとしないのです。それは、心の中に本音、「自分を中心に生きていきたい」「自分のためだけに生きていきたい」という思い、欲望があるからではないでしょうか。「お金、権力がすべてである。それを手に入れたい。自分の人生は自分のものだ。決して神様のものではない。」だから神様を信じて受け入れることはしない。神様が求めていること、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩むこと」が求められていることはわかっている。ただ、このことを信じて窮屈に生きることはしたくない。そのように思っているのではないでしょうか。そして、それは自分の命が自分のものと信じているからです。これが人間であり、人間の本音、人間の心の奥底にある、自己中心というものです。

 今日は、神様の御許に召された方々の生き方を思い起こす時となります。今、思い起こす時、召された皆さんの生き方はどのような道であったのでしょうか。それこそ、自分の命を自分のものとして、ある意味、人間らしく生きた時もあったでしょう。しかし、その中で、神様を見ていかれたのでしょう。信仰の先達の皆さんは神様と向き合う道を選び取ったのです。神様が求めていること。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩むこと」を知り、そしてその道を歩もうと決心をされ、生きていかれたのです。それが、「信仰」なのです。信仰は、神様がすでに私たちを愛し、私たちのために、イエス・キリストが与えられ、愛されている現実から、神様に従う道を選び取ることです。召された皆さんは、この信仰の道を選び取っていかれた方々なのです。もちろん、時に自分の心に敗けてしまうこともあったでしょう。むしろ、だからこそ、キリストを必要として、そしてキリストの愛を知り、何度も何度も神様の愛に触れて生きて、そして今、神様の御許に挙げられているのです。私たちは、自分自身に問いたいと思います。私はどのように生きていきたいのか。神様が求められていることに応えて生きていきたいか。それともあくまでも自分の欲と心の本音を一番にして生きていくのか。考えていきたいと思います。

 

4:  神と共に歩む

 私たちは、神様に造られた者であり、自分で自分を造り生まれた者ではありません。私たちは誰もがそのことを知っているでしょう。そして。だからこそ、命の尊さを知っているのです。そしてそれは、自分の命だけではなく、他者の命も、同様に大切なことなのです。この私たちの命が光で照らされるため、神を愛し、人を愛し、自分を愛し、生きることができるために、イエス・キリストを通して、神様はその愛を示してくださったのです。神様は、私たち人間と共に歩む道を選び取られました。神様は、私たち人間を愛してくださっているのです。召された方々は、今、この神様の愛の御許におられます。私たちもまた、今、この時に、この神様の愛を頂きたいと思います。神様の愛を持って、神様と共に、歩み出したいと思うのです。そして、神様の求められている道、神様の正義と慈しみを持って、神様の前にへりくだり、歩んでいきましょう。(笠井元)

2024年

9月

28日

2024.9.29 「神様の求めている生き方」(要約) ミカ書6:6-8

1:  召天者記念礼拝

 今日は召天者記念礼拝です。神様は、御心のうちに私たち一人一人を創造し、そしていつの日か、その命を御許に召されます。死は神様の愛の御許に召される時となります。死はすべての人間に必ず訪れます。死はすべての人に平等に与えられます。そしてこの死を越えて、イエス・キリストは私たちと共にいてくださるのです。神様の愛は死に飲み込まれることはないのです。

 

2:  何をもって主の前に出るのか

 ここでは何をもって神様の御前に出るべきかが問われています。イスラエルの王、アハズ王はあまりの不安からわが子を神に捧げたと言われています。これは異教の習慣であり、キリスト教ではイエス・キリストによって、もはやあらゆる犠牲が必要のないものとされたのです。ここでは、神様は何かを持ってくること、何か献げものを求めてはいないと教えます。神様が求めているものは私たちが持っている何かではなく、「わたし」自身であり、「あなた」自身です。

 

3:  神様の求められている道

 私たちがなすべきことは「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」です。私たちは、心のどこかで神様がこのように求められていることを感じ取っているのではないか。ただ人間はあれこれと理屈を重ねて神様を信じようとしないのです。心の中に「自分を中心に生きていきたい」「自分のためだけに生きていきたい」という思いがあるのではないでしょうか。

 今日は、神様の御許に召された方々の生き方を思い起こす時となります。この信仰の先達の皆さんは神様と向き合う道を選び取ったのです。神様が求めている「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩むこと」を知り、その道を歩もうと決心をされたのです。

私たちは、自分自身に問いたいと思います。神様が求められていることに応えて生きていくのか。それともあくまでも自分の欲と心の本音を一番にして生きていくのか。考えていきたいと思います。

 

4:  神と共に歩む

 

 私たちは、神様に造られた者であり、自分で自分を造り、生まれた者ではありません。だからこそ、命の尊さがあるのです。神様は、私たち人間と共に歩む道を選び取られました。神様は、私たち人間を愛してくださっているのです。召された方々は、今、この神様の愛の御許におられます。私たちは今この時に、神様の愛を頂きたいと思います。神様の愛を持って、神様と共に、歩み出しましょう。 (笠井元)

2024年

9月

25日

2024.9.25 「神様の言葉に従い歩み続ける」 ヘブライ人への手紙11:8-16

1:  神の言葉に従い出ていく

今日の箇所ではアブラハムの信仰について語られます。アブラハムは、創世記11章の末から登場し、イスラエルの「信仰の父」と呼ばれるほどの人物です。神様はアブラハムに【「生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」】(創世記12:1)と言われました。そして、【アブラムは、主の言葉に従って旅立った。】(創世記12:4)とあるように、アブラハムはこの神様の言葉に従い、旅立ったのです。(ヘブライ11:8

アブラハムは、もともとは父テラとウル(現在のイラク)に住んでいました。そこから父テラに連れられてカナン地方に向かって出発したのです。ハラン(現在のトルコ)についたところで父テラが召されました。ハランは商業、文化、政治の中心都市でとても栄えていた都市とされています。そのため、ハランに留まり続ける方が安心できたかもしれません。

しかし、アブラハムは神様の言葉を受けて、これから何が起こるかもまったくわからない道を歩き始めたのです。アブラハムは今の安全、安心よりも、神様の言葉を選びました。

私たちは、この世の財産、権力、名声を求めます。また何の心配もなく、安心して生きることを求めます。そのためには、どれだけの財産を持てば安心なのでしょうか。神様の召しに従い、アブラハムが歩き出したということは、この世の何かを土台として安心を得ていくことから、神様の言葉を土台として歩みだした大きな一歩なのです。

 

2:  約束の地で、幕屋に住んだ

アブラハムは信仰を持って歩き出しました。そしてアブラハムは「約束の地に住んだ」のです。ただその形は「他国に宿るように」つまり「寄留者として」「幕屋に住んだ」のです。(ヘブライ11:9,13)と言うのです。アブラハム、またイサク、ヤコブはこの世にあっては、約束の地に住んだとしても、この地上ではよそ者であったのです。アブラハムの求める安住の地は10節にあるように、神様が設計者であり、建設者である土台を持つ場所です。

アブラハムは約束されたものを手に入れることはできませんでした。しかし、その道をアブラハムは喜んだのです。それは、神様の言葉を土台として生きる者であったからです。そしていずれこられる神の国を見ていたからです。

このとき、ヘブライ書を読んだ人々も、大変苦しい状況にあったとされています。大きな試練の時、人生の危機、信仰の危機にあったのです。その中で、人々が求めたのは、この世での平安でした。そして、その思いが強くなればなるほど、人々は教会から離れていったのです。教会には、この世での平安、成功は見ることはできなかったのです。そして人々は教会から離れていったのです。これは今の私たちの教会も変わらないかもしれません。私たちは、いずれくる神の国を見つつ、この世の旅人として、仮住まいに生きる時、喜びを得るのです。

3:  まだ見ぬことを信じた

11節の文章には問題があります。サラが「子をもうける力を得た」とありますが、この言葉の意味は「男性が精子を産み付ける」ことを意味しており、サラにはありえない言葉となっています。また根本的なことでいえば、「子をもうける力」が神の祝福であるとすること自体にも問題があります。また12節「死んだも同様の一人の人」とありますが、年老いて子をもうける力を失った者を「死んだも同様の人」とすることも問題です。聖書には、多くの問題のある言葉があり、その言葉が多くの人々を傷つけてしまうことがあることも覚えておく必要があります。

ここで読み取りたいことは、サラとアブラハムは「まだ見ぬことを信じた」ということ、神様は人間の常識を越えて働かれるということです。神様はアブラハムに「あなたの子孫を大地の砂粒のように、星の数のようにする」(創世記13:14-16,15:5-6)と言われました。このことをアブラハムは信じたのです。

これから先、どのようになるかは、私たち人間には誰にもわかりません。私たちが望まないことが起こるかもしれませんが、神様は、私たちを愛し、私たちが喜んで生きるために最善の業を、行って下さいます。このことを信じることが信仰です。

 

4:  信仰の揺らぎ

アブラハムは天の故郷を熱望した。いずれ来る神の国を見ていたのです。15節では、出てきた土地のことを思う、人間の心の揺らぎを持つ者について語ります。

アブラハムもいつも神の御業を見ていたわけではありません。アブラハムはハガルとの間にイシュマエルをもうけました。サラを妻ではなく妹と言いました。サラは神様の使いの言葉に対して「笑った」のです。その中で、「出てきた土地に戻るのに良い機会もあったかもしれません」。神様を土台として生きることを止めて、この世の価値観をもって生きていくこともできたのです。それでも、アブラハムも、サラも、出てきた土地に戻ることはなかったのです。信仰を捨ててこの世に土台を置いて、この世のものを中心において生きるということはしませんでした。

神様は、このような者を恥とはせず、そのような心に信仰の揺らぎを持つ者を受け入れ、そのような者を召し、そのために神様の都、つまり神の国を準備されているのです。

 

ヘブライ書を読む者たちは、教会にいる意味を見失い、イエスを主と告白することに疲れた者たちだったとされます。そのような者に、この心の揺らぎを持つことは、アブラハムでもあったことであり、しかし、そこから信仰を捨てるのではなく、そこからもう一度神様に目を向けることを勧めているのです。私たちも神様を完全に信じるということはできないでしょう。神様から離れていくこともあるでしょう。ただ、それでも一歩、今までの生き方を変えて生きる。その一歩を歩み続ける者とされていきたいと思います。(笠井元)

2024年

9月

21日

2024.9.22 「何を正しいこととして選び取るのか」(要約) ルカによる福音書11:14-23

1:  危険を顧みず行われたイエスの癒し

イエス様は口を利けなくする悪霊を追い出しました。群衆はイエス様の癒しに対して「この人は、悪霊の頭、ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだ」としたのです。イエス様は、ご自身が癒しを行えば人々が非難をしてくることはわかっていました。それでもイエス様はご自身の危険を顧みることなく、孤独で悲しみ、社会で差別され、生きる希望を失っている者のところまできてくださり、癒しを与えてくださったのです。

 

2:   口を利けなくなること

ここで悪霊の働きは「口を利けなくする」という働きとして限定されています。イエス様は、自分は言葉を発すること自体が許されていないと思っている者の隣に来てくださり、その存在を認め、声を発することが許されていることを教えてくださったのです。人間の人生には様々な問題が起こります。ただ、「自分は今、辛い状態なんだ。どうすればよいのだろうか。助けてほしい。」と声をあげることができれば、その苦しみは半減します。声をあげることができない時、私たちは孤独に心を支配されているのです。人間を孤独に導き、その希望を奪い取っていくのが、口を利けなくする悪霊の働きであり、それは命を奪い取る働きなのです。

 

3:   悪霊の働き 何を正しいとするのか

 イエス様ご自身に悪霊の働きが襲い掛かってきました。正しいことをすることに対する非難です。癒しをなされたイエス様は「あの者は悪霊の頭で、悪霊の力で悪霊を追い出しているのだ」と言われました。この言葉は正しいのでしょうか。隣人を愛し、人と共に生きて、苦しみを分かち合うこと・・・それが悪霊の働きだとされたのです。人を傷つけても、自分がよければそれでよい。それがこの世の現実なのです。イエス様の敵対者は、自分の立場や、自分の主張が変えられてしまうことを恐れ・・・癒し、悪霊を追い出すという行為を、悪霊の頭の業としたのです。

  

4:  神の国を選び取る

 

イエス様は、神の指で悪霊を追い出し、神の国を送ってくださったのです。私たちは、何を神の行為とし、何を神の国とし、何を悪魔の行為とし、どのようになることが悪霊の国となることとするのでしょうか。私たちの人生は選び取りの人生です。イエス・キリストは、この世にきてくださり、私たちと共に歩む道を選び取られました。ここに神の国が来ているのです。私たちは何が、神の国、神の行為なのかを考え、イエス・キリストに委ねて選びとっていきたましょう。(笠井元)

2024年

9月

21日

2024.9.22 「何を正しいこととして選び取るのか」(全文) ルカによる福音書11:14-23

1:  危険を顧みず行われたイエスの癒し

今日の箇所は、イエス様が悪霊を追い出している場面から始まります。イエス様は、口を利けなくする悪霊を追い出していました。現在、悪霊といいますと、どこか幽霊のような存在で、いるのか、いないのかもわからない、ただなんとなく怖いといったものと思われているのではないでしょうか。ここでの悪霊はなんとなく怖いとか、いるのかいないのかわからない、といったものではないのです。むしろその働きは口を利けなくするものであると、はっきりとしたものとなります。

今日の箇所で、群衆は、このイエス様の癒しの出来事が起こっているのか、起こっていないのかということは問題としていません。悪霊を追い出すという癒しは確かに起こっていた。そのうえで、このイエス様の癒しに対して、群衆が問題としたのは、「この人は、悪霊の頭、ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだ」としたこととなります。つまり、目の前で起こっている癒しは、悪霊の業である。それも悪霊の頭が悪霊を追い出していることだとしたのです。イエス様は確かに口を利くことが出来ない者を解放しました。そして、このあと【イエスは彼らの心を見抜いて】(ルカ11:17)とあるように、イエス様はこのとき、自分が癒しを行うことで、群衆がどのような心を持つようになるかということはわかっていました。癒しを行えば、人々が非難をしてくることはわかっていた。その上で、イエス様は悪霊を追い出し、癒しを行っていたのです。イエス様は自分が非難を受け、この世での立場が危うくなり、生きることが危険になっていくこと、苦難に向かうこと理解しながらも、目の前で苦しむ人を放っておくのではなく、その者に関わり、その痛みから解放することを選ばれたのです。ここに、イエス様の、この癒しに対する思いを見ることができるのです。イエス様は人々を愛された。だからこそ、自分自身の危険を顧みることなく、癒しを行ったのです。イエス様は、神の子として、何でもできるから、苦しみも痛みもなく、ただ目の前にいる人を癒し、自分の力を表していたのではないのです。イエス様がなされていたこと。それは、苦しむ者を目の前にして、自分自身が苦しむこと、最終的には命を落とすことになろうとも、その者を見放すことはなく、共に生きたということなのです。

 この時、悪霊は口を利けなくするという存在でした。当時、口が利くことができないということだけではなく、何かしら病気にかかることは、自分、または親、そして先祖の「罪」によるものだと考えられていました。だからこそ、悪霊によって、口が利くことができないとされているということは、逆に、口が利くことができないからこそ、その人が悪霊に囚われていると考えられていたのです。そこには、生まれながらにして口が利けない人もいたでしょうし、また何かしらの病になり、口が利けなくなった人もいたでしょう。それらはすべて悪霊によるもの、そしてそれは、その人、またはその関係者の罪によるものだとされていた。そしてその人は、人間としての存在自体が認められず、社会から疎外されていったのです。イエス様は、そのような者たち、ここでは「口が利けない者」とされますが、肉体的にハンデを持つことで、罪を持ち、悪霊に囚われているとされた者たちに、癒しを与えていたのです。それは、その者たちが、この社会において人間として正しく理解され、生きることが赦されるための癒しであったのです。イエス様は、ご自身の危険を顧みることなく、人々が孤独で悲しみ、社会で差別され、生きる希望を失っている中で、その者のところまできてくださり、癒しを与えてくださったのです。これがイエス様の癒しです。

2:   口が利けなくなること

そのように考えると、この癒しの業は、ただ肉体的に癒されたということだけではなく、そのように社会のはみだし者とされ、悪霊にとりつかれているとされる者と、イエス様が共に生きて下さり、「差別」や「孤独」といったものから解放してくださったということでもあるのです。これがイエス様の癒しの本質です。人間が人間として生きるため、イエス様が共に苦しんでくださった。それは、私たちも変わらず持つ、弱さや苦しみを、イエス様が共に担って下さっているということでもあります。今日の箇所では、この悪霊の働きは、特に「口を利けなくする」という働きとして限定されています。イエス様は、確かに肉体的に癒しを与えて下さったのです。そしてそれは、同時に、この世で声をあげることができない者。自分は弱く、小さく、言葉を発すること自体が許されていないと思っている者。そのような者の隣にきてくださり、その存在を認め、声を発すること、意見を述べることが許されていることを教えてくださった。そして声をあげることができるようにしてくださったとも見ることができるのです。 

 現在は情報化社会とされ、SNSなどで、自分の言いたいことは、好きなだけ言えるようになっているようにも思えます。しかし、本当にそうでしょうか。皆さんは本当に言いたいこと、そして言わなければならないと思っていることを言うことが出来ているでしょうか。現在、日本での自死者は2万人とされています。20、30年ほど前は、3万人とされていましたので、その時から比べると少なくなったとされます。ただ、少し、少なくなったからといって、それは喜ぶことができることではないのです。自分で自分の命を絶つといった行為。一つの命が失われていくことは、本来はあってはならないことなのです。今、2万人もの人が、苦しみに耐えきれず、自分の命を絶っている。このことを私たちは重く受け止めなければならないでしょう。この自死の動機として多いのは、健康の問題、経済・生活の問題、家庭の問題などが挙げられています。ただ、どれほどの問題があろうとも、一番の問題は、その問題があり、苦しくて、追い詰められていることを、誰にも伝えられなくなり、一人で抱え込んでしまうことにあるのではないでしょうか。

人間の人生には、それぞれ様々な問題が起こります。皆さんも今も何かしらの問題、困難、トラブルなどを抱えているかもしれません。ただ、「自分は今、辛い状態なんだ。どうすればよいのだろうか。助けてほしい。」と声をあげることができれば、まず声をあげることだけで、その苦しみは半減し、また解決へと向かうために共に協力していくことができるのではないでしょうか。声をあげることができること。それは「一人ぼっち」ではないということです。逆に、声をあげることができない時、私たちは「孤独」に心を支配され、苦しくても苦しいと言えず、追い詰められていきます。これが一つ、口が利けなくなることではないでしょうか。そして、このように誘い込んでいるのが悪霊の働きです。人間を孤独に導き、その希望を奪い取っていく。これが、口を利けなくする悪霊の働きであり、それは命を奪い取る働きなのです。イエス様はここから癒してくださった。つまり、「あなたは一人ではない」「苦しい、助けてくださいと言って大丈夫だ」「必ず神様が助けてくださる」と教えているのです。

 

3:   悪霊の働き 何を正しいとするのか

 この時、イエス様は、口を利けなくする悪霊から人々を癒していたのです。しかし、今度は、そのイエス様ご自身に、その悪霊の働きが襲い掛かってきたのです。それは「正しいことをすることに対する非難です」。そして、何が正しく、何が正しくないのかを歪めてしまう働きです。確かに、この世において、何が正しく、何が正しくないことなのかは、考え続けていなければなりません。そうでなければ、自分自身は必ず正しいという歪んだ思いに陥ってしまいます。それもまた大きな問題となります。そのうえで、今日の箇所において、癒しをなされたイエス様は、「あの者は悪霊の頭で、悪霊の力で悪霊を追い出しているのだ」と言われました。この言葉は正しいのでしょうか。少なくとも、ただただ、目の前で苦しむ人を見捨てるのではなく、助けることを、私は悪霊によるものだとは思いません。ここでは、それが「悪霊によるものだ」と言われたのです。隣人を愛し、人と共に生きて、苦しみを分かち合うこと・・・それが悪霊の働きだとされたのです。この世の社会では、それがたとえ人を助け、人を救い出す行為だとしても、自分にとって不都合であったり、その者自体の存在が、不愉快、不必要、敵対者であると思うときに、その行為を、良いこととして認めないのです。そしてそれはただ、認めないだけではなく、その助け合う行為自体を否定し、非難していくのです。これは皆さんも思い当たることがあるのではないでしょうか。簡単に言うならば、嫌いな人が良いことをしていても、認められない。嫌いな人と一緒に喜ぶことができない。本来、喜ぶことが起こったとしても、それを一緒に喜ぶことができないことがあると思うのです。 

 以前、私がまだまだ小さかった頃・・・「なぜ戦争は悪いこと、してはいけないこと、誰もしたくないことなのに起こるのだろう」と聞いたところ、「戦争をしたい人もいるのだよ」と言われ、とても驚きました。「戦争をすることを商売とし、戦争をすることによって儲けようとしている人、人気を集めようとしている人、それで自分が偉いとする人々がいるのだよ」と教えられ、確かにその通りだと思い、自分の認識の甘さを教えられました。戦争をすること。人を傷つけること。それはしてはいけない。・・・はずです。幼稚園では子どもたちにそのように教えるはずです。「人を傷つけてでもおもちゃを取り合いなさい」とは教えません。小学校でも、テレビでも、そのように教えているはずです。だから、全ての人がそのように思っていると思っていた。しかし、現実は違ったのです。人を傷つけても、自分がよければそれでよい。それがこの世の現実なのです。

 今日の箇所で、イエス様は、まさにこの自分勝手な人間の社会に非難されたのです。イエス様の敵対者は、自分の立場や、自分の主張が変えられてしまうことを恐れ・・・癒し、悪霊を追い出すという行為を、悪霊の頭の業としたのです。これがこの世、人間の社会です。わたしたちは、時に社会の圧力、人間関係による不安から、必要だと思ったこと、正しいと思うことを声にして語ることができない時があります。それこそSNSというものが発達したこの世の中では、たった一言だけでも間違えれば、大きな問題とされ、誰かもわからない人から激しく非難されます。イエス様が「悪霊の頭」と言われたように・・・何をしたとしても、それが正しいことであったとしても、その行為が、自分にとって不都合な者たちにとっては、それは正しくないことであり、むしろ自分にとっての正しさを保つために、みんなが非難をするようにしていくのです。そして、愛の行為は悪魔の行為とされる。神様の御業が、悪霊の頭の業とされていくのです。共に生きること、人を支えること、痛みを共に担い、共に愛し合い生きること。ここではそのようなことは「悪霊の頭」によるもので「正しくない」とされたのです。これがイエス様に向けられた悪霊の力ということができるでしょう。

  

4:  神の国を選び取る

このような非難、圧力に対して、イエス様は【11:20 しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。】(ルカ11:20)と言われたのです。イエス様は、神の指で、悪霊を追い出し、ここに神の国を送ってくださった。それはイエス様ご自身が、私たち人間の弱さを共に担って生きる道です。イエス様は「わたしはあなたを愛している」ということを、自らの命をかけて、私たちの痛みを共に背負い、生きてくださった。これがイエス様の教える、神様の癒しの業であり、神様の恵みなのです。イエス様は、悪霊の力で、人々から悪霊を追い出したのではなく、神様の霊によって、その導きによって、悪霊を追い出されたのです。それでも、人々は、自分の都合ばかりを見て、イエス様を受け入れることができず、その行為を悪霊によるものだとしました。このイエス様の行為を、私たちは、どのように受け取ることができるのでしょうか。ここでは、そのことが問われているのです。私たちは、何を神の行為とし、何を神の国とし、何を悪魔の行為とし、どのようになることが悪霊の国となることとするのでしょうか。

神の国。それは神様の愛の恵みによる支配のことです。この神様の支配というものは、悪霊の力によって、縛られ、悪霊によって支配されていた者が、解放され、神様の愛の支配の内に入れられていくことを、意味しているのです。それは、この社会にあって、孤独を感じ、苦しみ、痛み、悲しむ者に、神様が共にいてくださり、そして、守って、支えてくださること、それが神様の愛の支配です。私たちと共にいて、平安を与えてくださる、その導きが、まさに神様の支配であり、それが神の国なのです。私たちは、この神の国、その神の支配にすでに入れられているのです。ただ、それを、私たちが、「これは悪霊によるものだ」とすれば、その恵みを受け取ることはできません。私たちは、神様の導き、神様の支配を求めているでしょうか。皆さんは、皆さんの心の中心にイエス様が来ることを喜ぶことができるでしょうか。それとも、自分の欲望を求め、自分のために生きることを喜ぶのでしょうか。

私たちの人生は選び取りの人生です。日々、選び取りの連続で、そこには自分なりの正しさがあり、その道を選んでいるのです。時には嘘をつくことも正しいとすることもあるでしょう。誰かを傷つけることは正しいでしょうか。自分が傷つかないために、誰かを傷つけ、差別し生きることは正しいのでしょうか。私たちは、自分の正しさを完全な正しさとしないことが必要です。

私自身のことで言えば、私は感情によって揺さぶられ、間違いだらけの人生です。正しい道を選び取ることができているとは到底言うことはできません。ただ、だからイエス・キリストが必要だと信じて生きています。私は、自分を見て、自分がイエス・キリストを十字架につけた者として、悔い改めることが赦されている。そして、どれほど間違いだらけでも、その自分を神様は愛してくださっている。その愛に触れて、生かされている。そして、だからこそ、この愛を知った者として生きる道を選び取ろうと、もう一度新しい命をもって生きていくのです。この繰り返しが、私の人生です。

イエス・キリストは、この世にきてくださり、私たちと共に歩む道を選び取られました。孤独にある者の隣に来て下さり、生きる勇気と希望を与えてくださっているのです。ここに神の国が来ているのです。是非、皆さんも、どの様に生きていくべきなのか、何が正しいことなのか、考え続けて欲しいと思います。そのうえで、何が、神の国、神の行為なのかを考え、そして最後はイエス・キリストに委ねて、赦された者として、選び取っていきたいと思います。(笠井元)