2024年
12月
20日
金
今、お互いに「クリスマスおめでとうございます」と挨拶をしましたが(Geetings)、挨拶の言葉はラテン語で「アヴェ」(ave)と言います。この挨拶「アヴェ」は、「ようこそ」や「幸いなるかな」「おめでとう」とも翻訳されています。ようこそイエス様!これがクリスマスの出来事です。
世界で一番美しい讃美歌といわれる「Ave verum Corpus アヴェ ヴェルム コルプス」は16世紀から歌われてきた歌詞を少し変えて、モーツアルトが曲を書きました。[Ave verum Corpus natum de Maria Virgine Vere passum immolatum In cruce pro homine(est): Cujus latus perforatum(est) Unda fluxit et sanguine Esto nobis praegustatum In mortis examine](ようこそ 処女マリアから生れた真の身体よ、真に苦しまれ、人間のために十字架にかけられ、いけにえとなられました。その脇腹は突き通され そして、水と血とを流されました。わたしたちのために死の試練を予め味わってください。死に臨んで先だつ経験者となってください。)まあ、キリストの体を表わすパンをいただく晩餐式において歌われる讃美歌ですから、当然なのですが、キリストの体について「ようこそ」と言われていることに驚きを感じました。彼が生れる1年前の1755年11月1日マグニチュード8.5~9.0の大地震がポルトガルのリスボンの町を襲いました。私の家族と共にリスボンに行ったことがありますが、人口の密集した、入江が入り組み、坂の多い町で津波による死者1万人を含む5万5千人から6万2千人が死んだと言われています。死者9万人であったという説もあります。当時のヨーロッパ人はかなり楽天的で、人間は自由と欲望によって繁栄するのだと考えていたのです。しかし、この大震災によって、自分の足で立っていると考えていた人々は、根底から揺さぶられ、世界の終わりが来たのではないかと感じたそうです。そのような民衆を慰めるためにモーツアルトは死の半年前にこの讃美歌を作曲しましたと言われています。「レクイエム」(葬式ミサ曲)と共にいわば、35歳の彼の遺言のような信仰告白です。美しい調べの背後には人間の生き苦しさ、悲惨、孤独が隠されているものです。「キリストは肉において現れ」が登場するということで、Iテモテ3:14-16の古い「キリスト賛歌」をクリスマス説教のテキストに選びました。クリスマス物語とは違って、イエスは、ダビデ王の家系であるとかユダヤ人であったとかには触れていません。キリストは「(悲惨を暗示する)肉において現れた」「人となられた」という賛歌は、抽象的ではありますが、かえって、広く、深いものを伝えているのではないかと思われます。(松見 俊)
2024年
12月
20日
金
今、お互いに「クリスマスおめでとうございます」と挨拶をしましたが(Geetings)、挨拶の言葉はラテン語で「アヴェ」(ave)と言います。ルカによる福音書のクリスマス物語ではマリアに妊娠を告知する天使が「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と言われています。Ave Mariaという有名な歌もありますね。この挨拶「アヴェ」は、「ようこそ」や「幸いなるかな」とも翻訳されています。ようこそイエス様!これがクリスマスの出来事です。ようこそイエス様!
今年のクリスマスメッセージの着想は夏に遡ります。8月12日福岡市市民センターホールで、ドイツ在住の私の友人の指揮でモーツアルトのレクイエム(葬式ミサ曲)を聞きましたが、その際のアンコール曲がモーツアルトの「Ave verum Corpus アヴェ ヴェルム コルプス」でした。これは16世紀からのローマ・カトリックの聖体拝受、つまり、バプテスト教会で言えば「主の晩餐」の時に歌われてきた歌詞を少し変えて、モーツアルトが曲を書き、世界で一番美しい賛美歌であると言われています。[Ave verum Corpus natum de Maria Virgine Vere passum immolatum In cruce pro homine(est): Cujus latus perforatum(est) Unda fluxit et sanguine Esto nobis praegustatum In mortis examine](ようこそ 処女マリアから生れた真の身体よ、真に苦しまれ、人間のために十字架にかけられ、いけにえとなられました。その脇腹は突き通され そして、水と血とを流されました。わたしたちのために死の試練を予め味わってください。死に臨んで先だつ経験者となってください。)46小節からなり、ゆっくりしたテンポで約4分間程度で演奏されます。少しお聞かせしましょう。(Youtubeから30秒間くらい)まあ、キリストの体を表わすパンをいただく晩餐式において歌われる讃美歌ですから、当然なのですが、キリストの体について「ようこそ」と言われていることに驚きを感じました。そして、同じような表現、「キリストは肉において現れ」が登場するということで、Iテモテ3:14-16の古い「キリスト賛歌」を説教のテキストに選びました。
1.聖書箇所の概要
パウロの名に寄せて書いている手紙のこの個所は、この手紙の「頂点」であるという人もいます。(NTD土屋博訳)。パウロはテモテに会いに行く計画を立てていたようです。15節では「行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです」と言います。この時点では信じる人とイエス様の霊的交わりというダイナミックな信仰と信仰者の交わりである教会は少し落ち着いて制度的にも整備されています。「監督」現在で言えば、牧師さんと執事さんたちが立てられたていたようです。「長老」とも言われています。信仰という言葉より、「信心」という言葉がこの手紙で目だっています。また、教会は、「神の家」であると言われ、「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」と述べられています。エフェソ書に通じるどっしりした「建築物」に譬えられた教会です。そして、16節は、「信心の秘められた真理は偉大です」という言葉で、導入され、典型的なキリスト讃美歌の引用でしめくくられています。
2.キリスト賛歌全体について
次に、キリスト賛歌に目を向けその全体構造を考えてみましょう。6行からなる詩は、動詞の過去形の受動態で、6行ともthēで終わって統一されています。そして、2行ずつセットにされ、地と天(肉と霊)、それから、天と地(天使と人々・異邦人です)、そして、地と天(この世界と天での栄光)という交差配列が見られます。「地」だけを拾ってみると、「肉において現れ、人々の中で宣べ伝えられ、世界で信じられた」となります。「天」を集めてみると「霊において義とされ」「天使たちに見られ」「栄光のうちに上げられた」となっています。「義と確証された」とは、肉においては十字架で殺されたので霊の目でみないと分からないということでしょうか。あるいはイエス様の地上での生活が歌われ、死者の中から引き上げられたことが、「霊において義とされ」という仕方で語られてているのでしょう。肉において啓示され、十字架上で処刑された人を神が全世界に向かって義人として示されたというのが最初の一組の讃美歌の内容です。復活において義と確証されたと過去形の事実として歌われています。第二組目には、天上では、天に高く昇られた方を天使たちが礼拝し、いわば、彼を「主」としたということです。そして、この地上では、「異邦人の間で宣べ伝えられた」と言って、キリスト者たちによる全世界に広がる福音宣教が対応しています。そして、第3組目は、今度はこの世のことが先に来て、「世界中で信じられ」と言い、天上では「栄光のうちに上げられた」と賛美されています。このような、この天と地、神と人との間の苦悩や孤独を背後に秘めた美しい交流、永遠の世界が時間の中に突入した出来事はまさにマタイとルカが伝えるクリスマスの物語であり、ようこそイエス様!です。これについてはクリスマスイヴに、喜びの賛美礼拝において更に体験することにしましょう。
3.肉において現れ
ではこの讃美歌の第一行に焦点を合わせましょう。「肉において現れた」とは見えない神が見える形でご自身を啓示されたという意味でもあります。この世界では、比類のない出来事、闇の中に輝く光のような出来事を歌った箇所です。
しかし、人の目には隠されていたものが明らかにされ、見えるようになるということは、「公衆の目に晒される」ということです。肉・身体とは、変化のただなかにある、朽ち逝く、死ぬものであるということです。先日西南学院大学の図書館のカフェでU先生に久しぶりに会いました。彼は私が宗教部長、宗教局長の際に「碧波寮」という男子学生寮の寮監でしたので、一緒に仕事をしていました。クリスチャンではありませんが、「人間、近づく死のことを考えると信仰の大切さ、宗教の意味を考えるなあ」としみじみ言われました。ギリシヤ・ローマ文化では、天地万物の創造をした神は矛盾や葛藤に満ちた問題の多いもの作った神として、「デミウルゴス・半人前の神」とされていたのでした。しかし、キリスト教信仰では、「神は人間として現われ、見られるようになり、われわれの一人として人間性を取られた。受肉は救いの歴史のための比類のない始まりである。」(オーデン)と考えます。
4.肉体を取ることの苦しみと悲しみ
それでは、「肉体を取ることの苦しみと悲しみ」について私たちの経験から考えてみましょう。導入部分でヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトの曲を紹介しました。彼は1756年に生れ、1791年35歳で亡くなります。あの曲は彼の死の半年前に作曲された遺言のようなものです。彼は直接体験していませんが、彼が生れる1年前の1755年11月1日マグニチュード8.5~9.0の大地震がポルトガルのリスボンの町を襲いました。人口の密集した、坂の多い町で津波による死者1万人を含む5万5千人から6万2千人が死んだと言われています。死者9万人であったという説もあります。当時のヨーロッパ人はかなり楽天的で、人間は自由と欲望によって繁栄するのだと考えていたのです。しかし、この大震災によって、自分の足で立っていると考えていた人々は、根底から揺さぶられ、世界の終わりが来たのではないかと感じたそうです。またこの大地震の日の11月1日は、ローマ・カトリック教会では、ハロインの次の日、「諸聖人の日」(万聖節)の休日で、教会で礼拝していたのでした。一体神はなぜ礼拝するキリスト者たちをこのような目に遭わせるのかと考えたようです。この大震災のショックを聞きながらモーツアルトは育ち、苦難の中で呻く人々を慰めようと思って、あの「アヴェ ヴェルヌス コルプス」を作曲し、十字架で苦しみ、共に死を死んで下さる、真の体として来られたキリストに「ようこそ、真の体で来られたイエス様」に美しい曲を付けたのです。モーツアルトは更に、「レクイエム」(葬式ミサ曲)を作曲しましたが、その「出だし」の処と No6 「Lacrimosa 」=神の審判を歌う「涙の日」を作曲しただけで死を迎えました。これらの曲の美しさはその背後に、人間の絶望、苦しみ、悲しみ、孤独が横たわっているからこそ、深みと美しさがあるのではないでしょうか。
今年の1月1日は日本でも能登半島の地震があり、また、羽田空港で航空機事故があるという痛ましいニュースでスターとしました。ウクライナへのロシアの侵略もまだ続いており、イスラエルとガザのハマスへの爆撃のニュース、シリアの内戦、イスラエルとイランの報復爆撃など、今年はまさに「平和」のために祈り、「平和」のためにささやかでも何かできないかと考えました。個人的なことを言えば、77歳、喜寿を迎えた今年は三度の手術・入院、そして、膝の故障で、記憶に残るような大変な年でした。皆さんも、喜びと楽しみと共に、悲しみと苦しみ、痛みを感じられたことも多かったのであろうと思います。それが肉体をもってこの世に生きることです。しかし、しかも、神ご自身がキリストにおいてこの肉体を持って生きられ、死を味わい尽くされたのです。キリストは「肉において現れた」という一行は、ダビデの子孫であるとかユダヤ人であるのか一切の言葉もない単純さです。それゆえ、意味が深いです。
5.希望の歌:死と悲しみの克服
しかしメッセージをここで終えるわけにはいきません。天使はマリアに「恵まれた人、神の好意を受け、喜ばれている人(gratia plena)、神があなたと共にいます。」と告げます。イタリヤに旅行するときは、「グラッティ」=「ありがとう」という言葉をまず覚えます。マリアは神の大きな好意(favor)を受けたというのです。キリスト賛歌では、地に下り十字架で殺される「降下する神の子」だけではなく、高く引き上げられた神の子を歌っています。死と悲しみを克服された勝利の神の子です。キリストは「霊において義とされ、天使たちに憧れと賛美の内に見られ、栄光の内に上げられた」のです。闇が深くなればそれだけ光が輝くように、人の罪、理不尽なことや不条理なことが多ければ多いほど、神の恵みも増し加わるのです。このキリスト賛歌はまさに希望の歌です。今年のノーベル平和賞は悲惨な被爆体験の語り部であり、「ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ」を一貫して運動してきた「日本原水爆被害者団体協議会」に与えられ、授賞式は出席者たちがスタンディングオーベイションで彼らの代表たちを迎えたと聞いています。この世は捨てたものではないですね。そのほか心の温まる思いやりの出来事も皆さんの間にはあったことだろうと思います。わたしたちは希望の光の中で、ようこそイエス様!というクリスマスの出来事の中で恵みの跡を探したいものです。天の喜びを見上げることが重要です。わたしたちはこのクリスマス礼拝において、「信心の秘められた真理は確かに偉大です」(16節b)と歌いましょう。(松見俊)
2024年
12月
13日
金
1: 神の選び
マリアのもとにガブリエルがやって来て「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1:28)と、何の前触れもなく知らせてきたのです。マリアはまだ16才程度です。そのような少女が何をもって、救い主イエスの母として選び出されたのでしょうか。マリアは何も持っていなかった。それが答えだと思います。神様の選びは、何かを持っているとか、何かを持っていないといったことによってなされることではないのです。
2: 恵み
マリアは恵みを頂いたのです。ある本に「良いことと悪いことはいつも半分ずつある」という言葉がありました。私としては、苦難はそれほど簡単なことではないと思いますが、良いことの裏を見ること、悪いことの裏を見るという視点は大切ではないかと思いました。私たちの生きていること、そのすべてにおいて、それは時に恵みであり、時に困難であると言うことができるでしょう。マリアが神様から頂いた恵みは絶対的な恵みです。それは、人生の根底にイエス・キリストが来て下さったということを意味しているのです。
3: 戸惑い
マリアは戸惑いました。マリアは、「主があなたと共におられる」と言われても、それをそのまま受け入れることはできませんでした。マリアは天使の言葉に対して「どうして、そのようなことがありえましょうか」と答えました。社会はイエス・キリストを必要としません。そのような中で、突然「神様があなたを愛しており、共にいてくださっている」という言葉を受けても、そこには戸惑いしか生まれないのです。
4: 聖霊を送りイエスをもって自らを差し出された神
戸惑うマリアに、天使ガブリエルは「神にできないことは何一つない」と言いました。神様は、マリアに「聖霊が降る」と言い、マリアのところに自らを差し出されたのです。神様は、戸惑い、不安に生きる私たちのところに、自らを差し出されたのです。その最大の出来事が、イエスがこの世に来られたということです。
5: お言葉どおり、この身になりますように
神様が、自らを差し出して愛してくださった。その神様の恵みを信じて、今度はマリアが自らを差し出す決心をしたのです。私たちは、自らの命を私たちに向けて差し出された神の愛を土台として生きることができるでしょうか。マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)と言いました。それは、命を差し出された神様にまっすぐ向き合い、自らの命を差し出した姿です。私たちも、このマリアの信仰告白に連なる者として歩み出したいと思います。(笠井元)
2024年
12月
09日
月
1: 天と地が揺り動かされる時がくる
「もう一度、地だけではなく、天をも揺り動かそう」(26)という言葉は、これから【すべての人の審判者である神】(ヘブライ12:23)が天を揺り動かし、揺り動かされないものを存続し、揺り動かされるものを取り除かれることを示しています。また【実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。】(ヘブライ12:29)と言われます。神は焼き尽くす火をもって、天からのみ旨を告げる方に背を向ける者を焼き尽くし、御国を受け取る者を鍛錬されるのです。
この時の読者にとって、審判者である神が来られることは希望の出来事でした。当時は、迫害、内部分裂等で、教会は立ち行かない状態でした。そのような中、いずれ神が来られる。今どれほど苦しい状態であったとしても、いずれこの世は終わりを迎える。そして自分たちは神様の前に救いの御業を受けた者として立つことが赦されているということです。現実が絶望の中にある時に聞く、終末の出来事は、大きな希望であったでしょう。
今の私たちは、この終末についての言葉をどのように聞くことができるでしょうか。神様の審判の時が来ることを畏れる者であるかもしれません。義であり、正である神様の裁きを受けるのですから、そのことを喜ぶことは難しいようにも思います。私たちが生ぬるい信仰生活を送っているからでしょうか。この時の読者が、特別に緊迫した状況にあったのでしょうか。または、私たちが本当は、緊迫した状況に置かれているにもかかわらず、そのことに気がついていない、気が付こうとしていないとも考えられます。
2: 語っている方を拒むことのないように
ここでは、この終末の時を迎えるにあたって【あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。】(ヘブライ12:25)と教えます。語っている方とは1節前の24節から読み取るならば、新しい契約者の仲介者イエスです。18節からの箇所では、シナイ山に近づく人々が神を恐れて、その言葉を拒んだことが語られています。そしてこのシナイ山に近づくイスラエルの民は、この後、神様から何度も離れ、結果として約束の地に入ることはできなかったのでした。このことを今日の箇所では、【地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかった】(ヘブライ12:25)とするのです。新しい契約の仲介者イエスを拒むことのなく、天と地が揺り動かされる時に、揺り動かされない者とされるように教えるのです。
3: 神による救い
神様は、この新しい契約の仲介者としてイエス様をこの世に送ってくださったのです。私たちが信じることは、ただこの救いの御業を受け入れることです。14節では【すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。】(ヘブライ12:14)とも教えています。私たちは、終末に向けて「聖なる生活」をもって生きるのです。救いは神様から頂くのです。神様が私たちを顧みて、私たちと共に生きてくださっていることを信じることが救いの一歩なのです。
この時の読者は絶望の中にありました。私たちも、この世界を見渡すと、絶望の中に生きていると言ってもいいかと思います。ただその絶望に目を向けないで生きている。目を向けたら、生きる気力がなくなってしまうから。このような世界で存在していることが苦しすぎるからではないでしょうか。私たちも、災害、戦争、または死や病気といった大きな絶望、困難にぶつかる時に、生きる希望を見失ってしまうのではないでしょうか。そのような時に、この神が、私たちを見ていてくださり、私たちに新しい契約の仲介者イエスを通して救いの恵みを語ってくださっていることを覚えたいと思います。
4: 感謝をもって、神に仕えていこう
私たちはすでに、神様からの救いの御業を頂いています。イエス様はすでにこの世に来て下さいました。そして今もまた、共に生きて下さっているのです。【わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けている】(ヘブライ12:28)のです。私たちは感謝したいと思います。
感謝を持つとき、私たちの人生は明るくされていくでしょう。ただ、人間はそれほど簡単ではありません。災害や戦争の中で、感謝を持つことはなかなかできないでしょう。その中でも一つ言えることは、どれほどの困難の中にあっても、イエス・キリストが共にいてくださるということです。救いは孤独ではないということ。主が共にいてくださるということなのです。私たちは共にいてくださる神、イエス・キリストに感謝をしたいと思うのです。そしてその感謝の思いを持って、神様に喜ばれる者として仕えていきたいと思うのです。
神に仕えるとして、私たちは何をすることができるのでしょうか。13章では【兄弟としていつも愛し合いなさい。】(ヘブライ13:1)【だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。】(ヘブライ13:15)と教えます。
隣人を愛しなさい。そして神に賛美を献げ、絶えず礼拝を続けることを教えられています。私たちは、恵みを現す者として、感謝して歩んでいきたいと思います。(笠井元)
2024年
12月
06日
金
1: ナオミ(快い)からマラ(苦い)へ
ナオミは、ベツレヘム出身の女性でした。夫エリメレクがおり、マフロンとキルヨンという二人の子どもがいたのです。ただ家族4人でモアブの地に移り住んだ後、夫エリメレクが死に、その後二人の息子も死んでしまったのです。当時、男性が先立つことは働き手を失うこととなり、残されたナオミは生きる力を失ったということを意味しているのです。そしてナオミは嫁のルツと一緒にベツレヘムに帰ってきました。このような状態であったナオミは、女性たちに「もはや、ナオミ(快い)などと呼ばないで欲しい。むしろマラ(苦い)と呼んでください。」と言い「主がわたしにひどいことをして、わたしを不幸に落とした」と言ったのです。
2: ルツという存在
この世では、私たち人間には到底理解ができないような悲しく、苦しいことが起こされます。苦しみの中でナオミの隣にはルツがいました。ただ、ナオミにとっては、ルツが隣にいても生きる苦しさは変わらなかったのです。またルツの立場を考えるとルツ自身にとっては大きな決断によるものでした。ルツはナオミについていくという道を選んだのです。ここにはナオミを一人にすることはできないという、ルツの大きな決断がありました。
3: 生き返る魂
今日の箇所は、そのナオミの魂が生き返らされていく場面です。この時あったのは、新しい命の誕生という神様の御業です。この出来事は、ルツがこれまで共に歩み続けてきた中で起こされた神の御業なのです。このことを通してナオミはルツという存在に出会ったのです。いつも、自分の隣にいて、慰めてくれていた人がいたことに気が付いた時に、ナオミは絶望から連れ戻され、生きる者と変えられたのです。
4: イエス・キリストの誕生
ルツの子としてオベドが生まれ、オベドからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれました。そしてダビデの子孫としてイエス・キリストはこの世に生まれました。イエス・キリストは、このルツの子孫として、魂を生き返らされる者としてこの世に来られたのです。神様は、すべての人間のために、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。この決定的な神の御業によって、人間は、魂の安らぎ、回復を頂く者とされたのです。
5: 誰と共に生きるのか
ルツはモアブ人、つまり異邦人でした。神様は人間となられました。弱く、不完全な者と共に生きる者となられたということです。ルツは、モアブ人でありながらも、ナオミというユダヤ人と共に生きたのです。私たちは自分が誰と共に生きるべきなのか考えていきましょう。(笠井元)