今朝、私たちはペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝に集っています。「ペンテコステ」とは、使徒言行録2章1節で「五旬祭」と翻訳されているように、イエス様が復活されたイースターから数えて50日目を意味しています。ユダヤ教では、このような農耕民族の収穫感謝の祭りを取り入れて、この日をモーセの十戒が与えられた日、「神の言葉」である律法が与えられた日として祝うようになりました。そして現在キリスト教会は、教会の誕生日、聖霊が降った日としてこの日を祝っています。
1.すべての人に、そして一人一人に
かつて、旧約聖書の時代には、神の霊は「特別の人に」、しかも「時々」働いたのですが、今や、「すべての人に」、そして一人一人に注がれています。(使徒言行録2:17)聖霊はここにいる「一人ひとりに」与えられているのです。「一人ひとりにもれなく」です。まさか、私のような貧しいものに聖霊が与えられるはずがないとか、私は十分豊かであるので今更聖霊など必要ないと思っておられるあなたに、人を傷つけ、感受性が決定的に欠けているとしか思えないようなあの人にもまた聖霊は注がれているのです。あるいは、重い病を背負っている愛する者の上には聖霊が与えられていないのではないかと私たちは嘆くのですが、その人にも聖霊が注がれているのです。神のいのちの息吹である聖霊はすべての人、そして一人一人に与えられているのです。
2.聖霊が「留まる」
私たちは、時々は愛することはできても、愛を生活することは困難です。持続力がないのです。しかし、ペンテコステの出来事によって、聖霊は一人一人に「留まって下さる」(3節)のです。
3.神の偉大な業
では、なぜ、そんなことが言えるのでしょうか?それは、聖霊は私たち一人一人を愛して下さるイエス・キリストの霊だからです。エルサレムに集まっていた人々は、イエス様の弟子たちが、そこに集まっている人々の言葉で、「神の偉大な業」を語っているのを聞こうとは(11節)、と驚いたと言います。「神の偉大な業」とは、イエス・キリストの十字架の死に至るまでの愛の業です。私たちが味わう、孤独と絶望と疑いと死とを神のみ子イエス様が味わい尽くされ、いのちへと引き上げられ、よみがえらされた出来事です。このイエス・キリストの救いの出来事は、まさにすべての人、そして一人一人の人のための出来事なのです。あのイエス様が今や、私たちに命を与える神の「息吹」あるいは「風」として皆さん一人ひとりに到来して下さり、私たちの交わりの中にいて下さるのです。(松見 俊)
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