今朝は、その神が「天にいます」ということ、そして、私の父だけではなく「われらの」父よと呼びかけるべきことを味わいたいと思います。
1.聖書における「天」
創世記1:1には、「初めに、神は天地を創造された」とあります。ここで「天」は「シャマイーム」で複数形です。英語では、In the beginning God created the heavens and the earth. となっています。ここで「諸々の天」は、人間の目には見えない神の被造物を意味しています。ところが、1:7にも天が登場します。「神は大空(firmament)を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた」。この大空をNRSVはdoomと翻訳していますが、古代の人は目には見えませんが、フクオクドームのような半球が地の上にあり、地上と海と鳥たちが生きる空間と、そしてその半球の上にある星の世界とを分けており、そして雨が丸い天上の穴から降ってくると考えていたようです。こうして聖書において、天は私たちが現在①「空」(sky)と呼ぶ雲や鳥の飛ぶ空間を考え、更に、②大地や海や大気を囲む半球型の外の星の領域をも「天」と呼び、そして、③最後に象徴的な意味として、目に見えない天使たちの世界、神が住まわれる世界を意味しています。使徒パウロは恍惚になって「第三の天」にまで引き上げられたといい(IIコリント12:2)、ユダヤ教では見えない天は、第7の天まで階層をなしていると考えるようになりました。
2.イエス様の天
「神は天におられる」。むろん、神はこの世に来てくださり、十字架の死にいたるまで神に従い私たちを愛されたみ子イエス・キリストとして、私たちの傍らにおられ、また、聖霊なる神として、私たちの心の中にもいまし給うのです。しかし、同時に私たちから離れ、超越しておられる父なる神であるからこそ、地に巻き込まれ呻く私たちを救い出すことがおできになるのです。
3.われわれ
さて、次に「われらの父よ」と呼びかける「われら」に注目してみましょう。主の祈りは「わたし」の祈りではなく、「われら」の祈りです。「わたしたちの日ごとの食物を、わたしたちにお与え下さい」。「私たちに負債のあるものを、私たちも赦しましたように」、「私たちを試みに合わせないで、わたしたちをお救い下さい」。どこまでも「私たち」です。私たちはしばしば、対人関係において傷つけられ、自分だけの「私の」神に逃げ込んでいきます。それも悪くはないのですが、「私の」祈りはいつも隣人を巻き込む広がりのあるものでありたいものです。そうでないと結局、独りよがりの祈りになってしまいます。家族、教会、地域を超えた広がりのある「われら」の祈りでありたいものです。神は、この世界に生かされている一人一人の父なる神なのですから。(松見 俊)
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