1: 信仰の土台
「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ」。(3)残りの者とは、エルサレムに残されたイスラエルの人びとです。バビロンに行った者。行かないで残された者の違い、それは信仰にあります。残りの者は、「信仰」にしがみついていました。神様の御言葉を土台として生きたのです。「わたしに聞け」と。バビロンの捕囚という最大の困難に出会う中で、何を一番にして生きるかの御言葉を示されたのです。
2: 生まれた時
「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。」(3)。聖書は「生まれた時」から、創造主なる神様が、一人一人を造り、責任をもって担い背負って共に歩んでくださったことを示します。私たちの命は、イエス・キリストの創造によって始まります。そして生まれた時から、今日も、明日も、明後日も、イエス・キリストが命を大切に背負ってくださり、命のすべてを担い支えてくださっているのです。
3: 孤独
わたしのこれまでの人生の本当の最大の困難の時は「孤独の時」です。人々の助けから逃げ出し、一人になり、孤独だと思い、自分を理解する人はいないと思い、絶望になっていったときに、それが最大の困難となっていきました。バビロンに向かった人々。神様の裁きに出会ったとされる人々。それは、孤独に向かった人々、その時ではないのでしょうか。
信仰とは、試練の中にあって、神様に出会うこと、御言葉にしがみつき聞いていくことです。そして神様に出会う勇気と希望をもって「孤独」から解放されて生きることです。私たちは孤独ではないのです。生きている意味は、私たち人間一人だけのものではないのです。神様に与えられた命として、神様が責任を持って、共に生きて生きる意味を共有しているのです。イエス・キリストに出会い、このゆるぎない信仰を受け取りたいと思います。
4: 担い、背負い、救い出す
「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:4)
イエス・キリストは、私たちが生まれて、そして神様の御許に行く時まで、担い、背負っていてくださいます。私たちの信仰は守られてきました。60年、変わることなくキリストが担い、背負い、救い出される者として、この信仰共同体は守られてきたのです。私たちはこの信仰を受けとり、受け継ぎ、歩みましょう。
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