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2013.10.2 「主の救いを受けて」 創世記4:17-24

 

2013年10月2日(水) 創世記4:17-24

1.      罪の後 

 カインは弟アベルを殺すという罪を犯しました。今日はその後の話となります。まず学びたいことは、殺人という罪、大きすぎる罪を犯した後のカインの人生についてです。

 神様がカインに備えられたのはエデンの東「ノド」「さすらいの地」です。「ノド」。それは、「やすらぎのない土地」「放浪の地」を意味します。しかしまた、それはカインの罪に対する神様からの刑罰というよりは、カインの罪に対する赦しとしての神様の備えでしょう。殺人という人間には背負うことのできない、大きな罪を犯した者にも、生きる場所を与えられた神様。神様は、罪人にも新しく生きる道を造ってくださったのです。

 そして、今日の箇所においては、カインにも再出発が許されたことが記されていくのです。妻が与えられ、子どもが与えられる。それは罪を犯したカインが、もう一度神様と向き合い、備えられた道を歩き始めたときに与えられた、その姿を現しているのだと思います。

 

2.      カインの系図 ( 創世記 4:17-22 )

 今日の箇所では、カインの系図が記されます。

 ここでは、カインが町を建てたこと。そしてレメクから、ヤバル、ユバル、トバル・カインが生まれ、ここから家畜を飼う者、音楽家、鍛冶屋が生まれたことを記しています。音楽家、鍛冶屋は、人類のなかに芸術が出現したことを表します。カインからこのような文化、町の建築が始まったことが記されています。

 これが何を意味するのでしょうか。世代を超えて行われた、都市建設の営み、そして文化の発進、発達です。文化と芸術が生まれたことの意味、それが聖書に記されていることはとても大きな意味をもつのでしょう。そしてそれはさまざまな視点から見ることができるのだと思います。

 一つの意味として、権力者の登場を伝える言葉ではないでしょうか。町、文化の出現は、権力、富の出現を意味する言葉でしょう。町の出現、それは、権力、富が集まりだしたことを意味しているのだと想像できます。そして、集まった権力者が高度な技術を必要として、鍛冶屋から青銅や鉄による武器を欲した。そして富を持つ者が、宴会の中で、楽しみ、喜ぶために音楽を必要としたのではないでしょうか。

 富を持つ者、権力者。それは、神様を畏れないもの、神様を求めない者でもあります。権力によって、神様を忘れてしまった人間。富によって、神様の存在を否定し始めた人間の姿を表しているのでしょう。

 富を持つ者、権力者。それは、神様を畏れない者、神様を求めない者です。権力によって、神様を忘れてしまった人間。富によって、神様の存在を否定し始めた人間の姿です。

 

3.      権力と恐れの歌 ( 創世記 4:23-24 )

 レメクは歌います。

 創世記4:23-24

 さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍。」

 レメクは2人の妻を前に、自分の力を誇示するかのように「復讐の歌」を歌います。このように歌う人間、自分の権力と力を誇示する、人間の心の奥底にあるものは何でしょうか。

 それは、神様の存在を否定し、自分の権力と力を誇示する人間。その人間の心の奥底にあるもの、それはまさに本当の恐怖、恐れがあるのだと思います。2001年9・11の事件の後、起こったことは「報復」という行為です。恐れ、恐怖に包まれた国、社会は、「報復」という行為を起こしました。「自分たちは強い」「自分たちの権力は何よりもすごく、大きく、強いのだ」と示そうとしたのです。

 これが神様を忘れた者の姿でしょう。

 

4.      長い道のりを越えて ( 創世記 4:25-26 )

 ここまでに記されたカイン、そしてカインの子孫の意味。それはカインの子孫によってこの世的、社会、文化、人類の発展がなされたことが記されたと同時に、そこには神様から離れた道を歩む姿も表されているのです。

 そして、ここにまったく新しい者として、アダムからセトが与えられます。そして、ここからエノシュが生まれ、ここから「主の御名を呼び始める」(26)つまり、「礼拝」が始まったと教えるのです。

 「セト」の名前には、「備えられた」という意味があり、「エノシュ」の名前には「人間」という意味があります。アダムとエバは、カインとアベルを与えられました。しかし、そこから起こった「殺人」という「罪」。そして神様から離れていく子ども、その孫たちの姿をどのように見ていたのでしょうか。

 「エノシュ」には、「人間」のほかに、「弱さ」「はかなさ」という意味があると言われています。神様との交わりをなく、生きていくことのできない、人間の弱さを教えられ、気づかされたのでしょう。

 ここから「礼拝」が始まります。アダムにとって、人間の創造からは、ここまでなんと長い道のりだったことでしょうか。主である神様と顔と顔を向かい合わせ、その御名を呼ぶ。罪の赦しを賛美して、感謝を賛美する。そこにたどりつくまでに、どれほどの道のりだったのでしょうか。

 私たちは、今、主イエス・キリストを覚え、イエス・キリストの御名を呼び求めましょう。そこに聖霊の働きを信じて、「あなたの愛を信じます」と。祈り礼拝していきたいと思います。