今朝は「主の祈り」の「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という祈りを共に味わいます。パンという命の糧を求める祈りの次に大切な祈りは、「人間関係」に関する祈りです。ここで「罪」と呼ばれているものは「負債」「借金」のことです。この祈りを正しく理解するためマタイ18:21~35の物語に耳を傾けてみましょう。
発想の転換:ペテロが尋ねます。「兄弟が罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七度までですか?」。随分無理して張り込んだものです。しかし、人間関係において「発想の転換」がなされるべきなのです。人を何回赦すかではなく、どのくらい赦されているのかを考えよ、特に神様との関係でどれほど赦されているかを考えよということです。
主イエスの譬:ある家来が王様から一万タラントンを借りていました。一万タラントンとは今の単位で言えば、数十億円になるでしょうか。どうしてもこの借金が返せないというので、王は「哀れに思って」(27節)、「彼をゆるし、その負債を免じてやった」と言うのです。少しぐらい返済しても意味のない金額なのです。到底返せない借金です。ところがこの男が、お城から出て行くと彼の仲間の一人に出会ったのです。彼はこの人に百デナリ貨していたことを思い出したのです。百デナリも八十万円くらいで、半端な金額ではないでしょう。でも一万デナリと比べたら「月とスッポン」です。彼は「借金を返せ」とこの人の首を絞めて、「借金を返すまで獄に入れた」というのです。理不尽な話です。でも、そんな理不尽なことを私たちはしていないか問われているのです。この譬から3つのことを学びます。
第一は、人間だれも互いに負い目があるという事実です。ローマ13:8には「互いに愛し合うことのほかには、だれに対しても『借り』があってはなりません」と勧められています。つまり、「愛し合うこと」には負い目があって良いのです。愛されていることはそれ相当のお返しでチャラにできないものです。聖書は、人間というものは互いに「負い目」「負債」「罪」を背負いながら生きている者である、百デナリの借りがある「罪人仲間」であると言うのです。
第二のことは、神様に負債を感じる者こそ、人間同士の過ち、問題を赦すことができる。神から大きな負債を赦されているこの事実に目を向けるときに、それが、人間同士の赦し合いの根拠あるいは「動機付け」になるということです。神は私たちのいのちの尊さをみ子イエス・キリストのいのちと同じほど愛して下さっているのです。
だからこそ、第三に、互いに赦し合うことが勧められているのです。(松見 俊)
コメントをお書きください