1. 神のように ( 創世記 6:1-2 )
今日の箇所は、とても神話的な話です。日本の神話はもともと神様も人間もあいまいなもので、多くの神話においても、このような箇所があります。今日、この聖書から学ぶことは、「神様の主権」、「命を造られた方の力と責任」についてです。
今日の箇所において、「神の子ら」が「人間の娘」を妻としたと記されます。
「神の子」については様々な解釈があります。このあと、神様の言葉に「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない」(3)とあるように、「神の子」とは、神に属する存在としてあらわされ、そこから神の霊が注がれる存在としていた者と理解されてもいます。
しかしまた、「神の子」と「人間」から生まれる「神の霊を持つ人間」が生まれることは、「神のように」あるもの、神様にありたいものとしても理解されています。その意味では、この後、名高い英雄、力あるもの、権力者としての「神のようにあるもの」「神にありたいもの」として見ることができるのです。そしてそれは、神様の秩序の乱れを起こすもの、神様の秩序を越えて、自分が神様になる思いを持つもの、「神様の霊を持つ肉なる者」の誕生を教えるのです。
バベルの塔の話など、人間と神様の境界線を越えて自らが神になる思いを持つこと、この罪を表した話が、ここにも記されているのです。
2. ネフィリム ( 創世記 6:4 )
ネフィリムとは原語では「落ちる」という意味で、天から落ちた者、巨人ともいいます。神様のいる天から落ちて、それでも天と地の境目のないところに生きて、自らを神様と信じて生きる者。天から落ちて、自らを神の子として生きる者、ネフィリム。
わたしたちは、自らの心の中に、そのような思いを抱いていないでしょうか。「自らこそが神」「特別な者」「神的存在」として。
特別な者になりたいと思うとき、そのように願い続けるときに、わたしたちは、そうでなくてはならない。特別なこと、すばらしいことができないと、自分は誰かに愛されることがないと思うようになるのではないでしょうか。
3. 神の主権 ( 創世記 6:3 )
そのような人間に神様は御言葉を与えられます。「主は言われた。『わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。』こうして、人の一生は百二十年となった。」(3)
ここに神様の主権が示されました。神様に造られた者、人間は神様の被造物なのです。神様は被造物の力の限界として、寿命を設けられた。ここに命は神が与え、神が取られ、神のものであることを示してくださったのです。
どれほど、わたしたちが富、権力、地位を得ることができても、天に持っていくことはできない。体を強くしても、肉の体はすこしずつ衰えていくのです。神様はすべての人間に120年という定め、それまでの「死」を設定されたのです。
4. 生きること、死ぬこと
神様は私たちに生きることと死ぬことの意味も教えられています。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマ14:7-9)
120年の人生に向かって、私たちが生きる意味を、私たち自身では造りだすことはできないでしょう。富のため、権力のため、自分の趣味のため、子どものため、そのほかなにかなんでも、わたしたちは最後には、神様の御許に向かいます。
その意味を考える中で、私たちは何を考えるのでしょうか。「イエス・キリスト」に仕える以外に、生きる意味があるのでしょうか。
5. 神の後悔 ( 創世記 6:5-7 )
神様は、地上に悪が増したことをご覧になりました。そして地上に人間を造ったことを「後悔」するのです。神様は「心を痛められ」ました。
「心を痛める」こと。となりの人の間違え、失敗を、無視して関心も持たないのではなく、「心を痛める」こと。これが本当の神様の愛です。神様は、人間の造りだす悪、罪に対して無関心で、関係なく生きる方ではありませんでした。そこに「心を痛め」「後悔する」のです。これが共に生きる神様です。
隣の人が道を外れているときに、注意することも、注意しないことも、わたしたちが選ぶことができます。隣の人が道を外れていることに心を痛めるのは、まさに愛の心ではないでしょうか。
心を痛めるとは、そこから、共に生きる、道を外れている人がもう一度、まっすぐに生きるために、正しく生きる為の道を教えて生きること、そのために、「後悔する」「心を痛め」てまで、共に生きる。神様は、そのために人間の罪を知り、人間の心がもう一度神様に向かうために、地上をぬぐいさる決心をされたのです。これが神様の「後悔」、そして神様の「心の痛み」です。
6. ノア ( 創世記 6:8)
神様は人間の罪から「心を痛め」もう一度、共に生きるために、ノアを選ばれました。正しく生きたノアの信仰が選ばれ、他の人びとは死に、人間の罪がぬぐい去られたのです。
そして、この後、新約聖書では、イエス・キリストを選ばれます。人間の罪をぬぐうために。しかしここでは、イエス・キリストの信仰から、イエス・キリストが取り去られ、死に向かわれて、すべての人間の罪がぬぐい去られました。神様は今も、私たちのために心を痛めているのです。そして共に生きているのです。私たちは、この神様の心の痛みの上、十字架の上に歩んでいきたいと思います。
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