ヨブは「大地よ、わたしの血を覆うな。わたしの叫びを閉じ込めるな」(16:18)と叫び、安易な慰めというものを拒んでいます。彼の苦しみ、嘆きの深さを思う時に、彼を気軽に慰めることは彼を侮辱することでありました。牧師をしていますと、病気や怪我などで伏せっている人をお見舞いする機会があります。人を慰め、励ますことは尊いことです。しかし、人を励まし、慰めることは難しい働きでもあるのではないでしょうか。第三者の、しかも、元気な人の励まし、上から目線の慰めの言葉や態度がかえって病気や怪我で寝ている人、心が弱くなっている人を傷つけることがあるのです。
ヨブは天災によって一瞬の内に全財産と愛する子供達を失ってしまったのでした。そして、自らも厳しい病に冒されます。そして、なぜ、このような災難に合わなければならないのかを自問自答して呻きます。神に向かって叫んで、のたうち回っているのです。そこに、3人の友人が彼を慰めるために次から次にやってきます。3人の友人はいろいろな理由を上げて彼を慰めるのですが、そのような慰めは、かえってヨブを苦しめ、煩わすだけなのです。「そんなことを聞くのはもうたくさんだ。あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる」。私たちは安易な慰め、病いや苦しみの理由づけなどがかえって人を煩わすことがあるということにまず気をつけておきたいと思います。
今週の2月11日は、「建国記念の日」です。私たちキリスト教会はこれに反対して、この日を「信教の自由を守る日」としています。2月11日は、旧紀元節であって、1873年(明治6年)定められたもので、『日本書紀』が伝える神武天皇の即位の日とされています。この日は絶対天皇制軍国主義の宣伝の日でした。そして、陸軍直轄の靖国神社は天皇の名で死んだ人を「慰霊」する神社でした。
神道や仏教や儒教やそのような他宗教が問題ではないのです。そうではなく、国が宗教に関わると、国家の意向で国のために死んだ人を「慰霊・美化する」し、新しい戦争、あるいは、国のために犠牲的に生きることが奨励・強要されることになること、そして、いつも弱い者が傷つくことが問題なのです。 (松見 俊)
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