1: 故郷で教えられたイエス様
イエス様は、故郷においても御言葉を語られました。イエス様は故郷に帰られました。しかし、それは、「帰る」というよりも、故郷に教えに行かれたということができるのではないでしょうか。故郷において会堂で教え始められる。それがイエス様の姿です。イエス様は、神様の御言葉、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)という福音を宣べ伝えるために故郷に行かれたのです。
2: 不信仰
郷里の人々は、イエス様を知っていました。人々にとってイエス様は、「イエス様」ではなく、まさに「人間としてのイエス」「我々と共に育ったイエス」でした。まさに人々にとっては普通の人間、その辺にいた、ただの人間だったのです。「『イエス』が神の御言葉を語っている。神様の御業を行っている。そんなことは信じられない。人間としてのイエスに、神様が来られたのか。」人々は、本当に驚いたのでしょう。しかし、この驚き、神様の御言葉、御業の内に、人々は、信仰に導かれるのではなく・・・躓き、心を閉ざしたのです。
「普通の人間イエス」と「神の子イエス」が共にあることを、イエス様の郷里の人々は拒否したのです。それは、わたしたち人間を代表する不信仰の現れです。
3: 不信仰が打ち砕かれる「時」
人々は、神様の御言葉を素直に受け取るのではなく、頑なな心、これまでの常識をもって、「聞く耳をもたなかった」のです。イエス様は神様の御言葉を宣べ伝え、人間の心が変えられるだけの御力をすでに注がれました。しかし、御言葉を受け入れない者「聞く耳を持たない者」、神様の御言葉に、「心を閉ざしている者」の心があったのです。
そのような心を、ただ大きな力でこじ開けること、人間の心を、外側から無理やり変えてしまうことは、神様の御心ではありませんでした。神様は、不信仰の心、聞く耳の持たない者のその心が、心の内から変えられる「時」打ち砕かられる「時」を待ってくださるのです。待ち続けてくださっている愛もまたイエス・キリストの十字架の愛なのです。
4: 繰り返される信仰と不信仰
わたしたちは、主イエス・キリストの十字架と出会った時、不信仰の心、「聞く耳のない」ところから、「信仰者」「聞く耳のあるもの」へと導かれていきます。しかし、その信仰は、後の弟子たちの信仰に示されるように、いつも不安定であり、時に、イエス・キリストから離れ、裏切るものです。そしてまた赦されてキリストに戻り、信仰を与えられて生きる。そんな信仰と不信仰を繰り返すものです。
わたしたちの信仰は、それほど不安定なもの、そして日々、打ち砕かれるものなのです。主イエス・キリストは、そのためにも十字架において死んでくださいました。わたしたちは、このイエス・キリストの愛を覚えていきたいと思います。
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