飢饉 ( 創世記 12:10 )
アブラムは、12章の最初において、神様からの召命を受けてカナンへと旅立ちます。それはただ旅に出かける、カナンに向かって出て行ったというより、神様の御言葉を受けて、その御言葉に従って歩みだした、信仰の道を歩きはじめたと言えるでしょう。アブラムは神様に従う信仰の旅を始めたのでした。神様に出会い、神様と向かい合い、その御言葉を受けて、歩み始めたアブラムです。
その最初の出来事が、「その地方の飢饉」です。「その地方」というのは「ネゲブ地方」(ベエル・シェバの少し南、南パレスチナ地方の荒野)(9)です。アブラムは飢饉にあったのです。アブラムは、神様からの御言葉に従う決心をしたその後、すぐに、飢饉にあいました。そしてそれは、命の危険、そして信仰の危機に出会ったといえるのでしょう。
ここで、カナンに向かい歩み始めた中にあって、飢饉という目に見える命の危険から、信仰の危険に出会っていったアブラムです。わたしたちは、どのような時に信仰が危険な状態にあることに気がつくでしょうか。神様に従って歩み続ける中で、私たちは、信仰がどのような状態にあるか、確認、点検することもまた、必要なことでしょう。
エジプトへ ( 創世記 12:11-13 )
アブラムは命の危険の到来の中、エジプトに下っていくことを決心します。もともと昔からエジプトは肥沃で恵まれた国として描かれているところで、エジプトへ避難することは普通の選択でした。
しかし、エジプトに下るともう一つの危険があることが記されているのです。それは、妻サライの美しさによる危険です。アブラムは「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」(11-13)とこのように言いました。
アブラムがエジプトに行くことは、サライを妻から妹にすることでした。つまり、飢饉という命の危険から逃れるために、サライを手放し、サライを危険と苦しみのうちに入れてでも自分は生きることを選択したのです。
アブラムの思い ( 創世記 12:14-16 )
命の危険は大きな恐れとなります。そのような意味で、アブラムのとった行動は、人間的には理解のできる行動であったのかもしれません。そして、確かに、アブラムの考えは的中しました。アブラムの考えは間違っていなかったと言えるほどに、すべては予想通りに進んだのです。エジプト人は、サライを美しいと思い、ファラオはサライを宮廷に召し入れました。そして、ファラオは、アブラムに羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えたのです。
神の御心 ( 創世記 12:17-20 )
アブラムの思い、人間的な考えは確かに的中したのです。しかし、それが神様の御心として、正しいとは言えませんでした。神様は、アブラムにこのように言われたのです。
「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」(12:1-3)
それは、アブラムと不妊の女サライを祝福し、そこから「大いなる国民」を与えると言われ、そこから「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と祝福されたのです。アブラムが、サライを「妻」から「妹」として離れることは、この神様の御心から離れることを表していました。アブラムは神様の御心から離れたのです。
命の危険、恐怖の内に、神様の御心から離れたアブラムです。アブラムは目の前に迫る飢饉を恐れ自分の人間的考えに頼って歩みだした。サライを捨ててでも生きる為に、エジプトへ向かうという人間的救いを考えて歩みだしたのです。
神様は、アブラムにこの間違えを教えるために、ファラオと、その宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせました。この時神様は、ファラオを通してアブラムに教えたのです。アブラムの進んでいる道が、神様の御心ではないことを。サライを「妹」と言い「妻」と言わないことは神様の御心ではないことを教えたのでした。神様は御心を教えるのに最善の業をもって示されるのでしょう。神様は自らの御心を教えるために、時にはファラオという者を通して、時にはまた別の者を通してでも、その御心を教えてくださるのです。
人間の不信仰と神様の救い
今日の箇所で、聖書は、恐怖や誘惑に出会ったときの私たち人間の弱さ、不信仰を教えます。アブラムは神様の御言葉によって召しだされ従いました。そして、神様と共に歩みだしたアブラムです。しかし、その直後に起こったのが、飢饉、命の危険です。アブラムはその中で、神様の御心から離れエジプトに向かいサライを捨ててしまおうとしたのです。そこには、アブラムの神様を信じることのできない姿がありました。ここに、わたしたち人間の不信仰の姿が表されているのでしょう。わたしたち人間は、それほど小さく弱いものです。それが私たち人間です。しかしまた、だからこそ神様は、そのような私たち人間を見放すのではなく、そのような私たち人間を救い出してくださるのです。
今日の箇所の最後において、ファラオはアブラムを無条件に追い出しました、むしろ妻とすべての持ち物を持たせて送りだしたのです。本来そんなことはありえないことでしょう。しかしこの出来事もまた、神様がファラオを通してアブラムに示した出来事、御心です。
神様は、ファラオを通して御心を示されました。それは、この、うそによって病になり苦しんだあげくに、無条件で妻とすべての持ち物を送り出すという救いの御業に示されるように・・・アブラムは神様から離れ、不信仰の中に歩みだしました。それでも、神様はそのようなアブラムを受け止めてくださった、神様は、アブラムのうそも、その不信仰も受け入れたことが示されているのです。これが神様の救い。神様の愛です。
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