1: イエスとは何者か 自分とは何者か
今日の箇所ではヘロデにイエスの名が耳に入ってきたことを教えます。ヘロデには、「イエスとは何者か」という問いがありました。ヘロデが「イエスは何者だろうか」という問いに行きつくときに、このような問いがあったと思います。「わたしが殺してしまった、あのバプテスマのヨハネは何者だったのだろうか」という問い。それよりもなによりも、ヘロデは、「自分は何者なのだろうか」「自分の生きる道」についても考え、悩んでいたのではないかと思うのです。このような思いは私たちの中にもあるのではないでしょうか。「自分は何者なのか」。
2: 王として生きようとする者
この時のヘロデは自分を受け入れられない、そんな人間の弱さを表します。権力を求めるヘロデのみじめな姿です。結局、ヘロデは、王を演じることによってヨハネを殺すことになりました。
ヘロデは二つの道、神様から与えられた御言葉、聖なるものをそのまま受け入れて生きるのか。それとも、権威のために正しいものを捨てるのか。そのような道に立たされていました。そして、ヘロデは、神様を捨てて、正しい御言葉を捨てて、王様のような権威を手に入れることを選んだのです。これがその時のヘロデの姿です。
3: 十字架のイエス・キリスト
ヘロデによって殺された、バプテスマのヨハネの姿が指し示していた方、イエス・キリストもまた、やがて同じように、捕えられ、縛られて、十字架の上にあって殺されます。「イエスは何者なのか」・・・という問いに、十字架で死んだ方が示された答え。それは、へりくだり、どこまでも仕え、最後には、命を捨ててさえも、人々のために生きた方としてその姿を示されたのです。これが十字架の主イエス・キリストの答え、そして神様の答えでした。「イエスとは何者か」、そして「私たちは誰なのか」という問いに答える神様は、ただ、このイエス・キリストの十字架を示されたのです。それはヘロデとはまったく逆の答え、そしてわたしたち人間が求めるものとは、まったく違う姿であります。主イエス・キリストは、この十字架で、私たちに答えを示されたのです。
神様は、私たちにイエス・キリストを送ってくださいました。わたしたちは、今、心のうちに何があるでしょうか。そして誰が自分の中心に立っているでしょうか。わたしたちは、今、心にイエス・キリストを迎え入れていきたいと思います。私たちは打ち砕かれて、主イエス・キリストによる愛を受けていきたいと思います。
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