婚礼の席、宴も酣(たけなわ)の時に、「ぶどう酒がなくなりました」と言われています。私たちの人生にもこんなことが起こるのではないでしょうか。今このときこそ、夫婦の間の愛情が必要であるのに、どうも愛の想いが湧き上がって来ない。仕事が、さて大切な場面を迎えているのに、どうも元気が枯渇してしまう。子育てで子どものために時間をとり、優しくしてあげなければと思ってもつい忙しく、いらいらしてしまう。相手を潤し、愛情を注ごうと思っても、自分の中のぶどう酒が枯渇してしまうのです。
1.2つの対応 その1 誤魔化して生きる
私たちは、まさに、限界のある、有限の存在です。人を潤してあげる力が無尽蔵にあるわけではないのです。10節に、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、…」という極めて常識的な対応の仕方です。もういい加減に酔っているので、惰性でその場を悪いもので取り繕う。お付き合いの初め、新婚生活の初めには、自分のありったけの良いもので相手に向かい合うのですが、何年か経つと、そうも言っていられない。中途半端なもので水を濁してしまうのです。
2.2つの対応 その2 水をぶどう酒に
これに対して、別の対応があります。信仰の対応です。ぶどう酒の枯渇に直面して、水をぶどう酒にしていただき、全く新しいものを神から頂く生き方です。人は実は神様から生かされているのです。「水がぶどう酒に変わるはずなかろうもん」とお考えでしょうか?水がぶどう酒に変わるのです。被造世界はそのような奇跡に満ちています。また、神はイエス・キリストをこの世界に贈って下さったのです。私たちの自己中心的な生き方を癒すために、十字架につけられ、よみがえられた主イエス、溢れる喜びの源が私たちの傍らにおられるのです。
3.水を甕に満たして待つ
むろん、私たち人間は、水をぶどう酒に変えることはできません。私たちの出来ることは、水がめの縁までせっせと水を酌み入れることです。結婚生活も、子育ても、仕事も、勉強も、教会生活も、そんな地道な仕事かも知れません。地味な働きかも知れませんが、神様のお働きのためにコツコツ準備して待つことはできるのではないでしょうか?!
4.溢れる喜びに生きる
子育ても最初はルンルン、だんだん厄介では寂しいでしょう。自立し、離れていく子どもたちが、一人の人として親と新しく出会ってくれるとしたら素敵ではないでしょうか!「それで、弟子たちはイエスを信じた」とあるように、私たちもいのちの主、溢れる喜びの源である主に信頼して、水甕に水を汲みましょう。子育てという幼児には本質的に必要な愛をイエス様から頂きながら、育て、育てられていきましょう。(松見 俊)
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