メルキゼデク
今日の箇所において、サレムの王メルキゼデクは「いと高き神の祭司」とされます。このメルキゼデクがどのような人物なのでしょうか。
少し説明しますと・・・「サレム」とは、「エルサレム」と同一視され、それでも、古い時代、古代カナン時代の「エルサレム」とされています。イスラエル以前の「エルサレム」としての「サレム」であります。そしてまたメルキゼデクという名前もまた、古いカナンの名前であり「わが王は義」であるという意味をもつのです。そして「いと高き神」という言葉による「神」は「多くの神々の頂点に君臨する神」という意味もち、古代カナンの神々の神と考えられるのです。
つまり、ここにあらわれたメルキゼデクは、いと高き神、つまり、古代カナンの神々の頂点に君臨する神の祭司、エルサレムの王であると記されているのです。このメルキゼデクが、アブラムを祝福します。「天地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された、いと高き神がたたえられますように。」(19-20)
ここで、メルキゼデクは祝福の言葉において、「天地の造り主、いと高き神」と、そして「敵をあなたの手に渡された、いと高き神」と祝福します。そこには、いわゆるカナンの神「いと高き神」から「天地の造り主、いと高き神」、つまり「天地の創造主なる神様」へ、そして「いと高き神」から「敵をあなたの手に渡された、いと高き神」、つまり「救い主なる神」へ、信仰の立場の移動としての祝福の言葉を見ることができるのです。
カナン人の神「いと高き神」からイスラエルの「創造主であり救い主なる神」としての「いと高き神」と。「メルキゼデク」はアブラムを祝福する言葉として「天地の造り主、いと高き神」「救い主、いと高き神」からの祝福を注がれたのです。
神様がどのような神様であるか。それはとても大切な言葉でしょう。創造主であり、救い主である神様。この神様を指し示す祝福の言葉は、私たち人間を喜びの道に導く、本当の祝福の道へ招く、祝福の御言葉でしょう。
メルキゼデクの祝福 10分の1の贈り物
メルキゼデクはアブラムを祝福しました。「天地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された、いと高き神がたたえられますように。」(19-20)アブラムは祝福を受けます。アブラムはそのいただいた祝福、恵みを覚えて、すべての物の10分の1を贈りました。アブラムは10分の1を贈りものとして差し出すほどに、祝福は恵みあるものであったのでしょう。
祝福、そして10分の1の贈り物。それは、神様と正しく向かい合い、生きていることを象徴的に表していると思います。私たちはもともと、神様に生かされている人間です。人間の命の10分の10が、その命のすべてが、神様に生かされています。その中にあって、私たちは神様に委ねて歩み、また神様から命をあずけられてもいるのです。人間が、10分の10を神様に委ねてしまうことは神様の意志ではないのでしょう。神様は人間に命をあずけられたのです。そのために、私たちは、10分の9をもってしっかりと生きて、10分の1を献げるという形で、神様に向かい合いながら歩み続ける、生き続けることになるのでしょう。
この恵みの生き方は、まさに祝福の上にあり、神様の祝福を表す生き方なのです。ここでアブラムは、メルキゼデクを通しての神様からの祝福を通して、神様からの命をいただき、そして10分の1という感謝を献げたのです。それは10分の9で生きる恵みを喜び、今、生かされていることを感謝している出来事でしょう。
信仰者として生きる
アブラムは神様からの祝福を受け、その10分の1を献げ、戦利品を受け取りませんでした。そこに、神様からの恵みに委ねる信仰が示され、その他の力、人間的力に頼ることのない姿が表されるのです。アブラムは、人間的権力を求め、頼るのではなく、ただ、天地の造り主なる神様の御業を信じていただいたのです。ここに、信仰者として生きる姿勢が示されているのです。
アブラハムを祝福するメルキゼデクであり、メルキゼデクにひれ伏すアブラハム。わたしたちは、このメルキゼデクに映し出される方、イエス・キリストによって祝福をいただき、そしてこのイエス・キリストにひれ伏し、すべてを委ねて生きること、その姿がここに表されています。
イエス様は、大祭司として、ご自身を献げてくださった。これが神の祝福です。わたしたちはこの祝福をいただき、このイエス・キリストの恵みを受けて、信仰をいただいて生きていきたいと思います。
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