1.神様の約束
わたしたちの信仰とは、福音の御言葉を信じるということ、神様からの約束を受け取るということから始まります。その信仰とはどのようなものでしょうか。いつもまっすぐ神様に向かっていることができるものでしょうか。むしろ神様の御言葉から離れてしまう時があり、信じることができない時がある。それがわたしたち人間ではないでしょうか。
今日のアブラハムとサラの姿は、そのような人間の姿を表しています。アブラハムとサラに対するこのイサク誕生の予告は、まさに福音の御言葉を信じて受け入れるということの困難さを教えているのでしょう。
アブラハムとサラは自分たちから考えてみれば、あるはずもない出来事。すでにあきらめていた子どもの誕生を告げられるのです。そのような信じられない希望の言葉を告げられるのです。人間的理解を超えた、知恵や感覚を超えた約束の福音の御言葉。希望というよりも、希望を超えていて、受け入れられない信じられない言葉。時に、それが神様からの福音の御言葉となっている。それほど、私たちの思いを超えた出来事であることを、今日の箇所は教えているのです。
2.サラの笑い
主のイサク誕生の予告。それは、人間の知恵や理解を超えた御言葉。その福音の御言葉に対して、サラは笑います。サラの笑いは、神様の御言葉に対する否定的思いからの不信仰を象徴するものでしょう。サラは神様の御言葉を心から理解し、受け入れることはできなかったのです。それがサラの姿、現実に生きる人間の姿です。自分の現実は、「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。」(11)という現実です。
神様の御言葉は、人間の現実を超えているときがあるのでしょう。わたしたちは、そんな神様の御言葉を、いつもまっすぐに受け入れられる者ではないのでしょう。それが人間、そしてこの世を生きる、罪ある人間なのです。
この時サラは、この神様の御言葉を受け入れることはできませんでした。それがサラの笑いです。サラの不信仰です。
3.不可能なことはありえましょうか
「主に不可能なことがあろうか。」(14)
今日の中心的メッセージはここにあります。それは神様からの問いかけであり、決断を迫るものであります。神様は問われるのです。「主に不可能なことがあるだろうか」と。これはすべての人間が答えを求められる問いです。そして、この問いに答えるときに、すべてが決定されるのです。主の問い「主に不可能なことがあるだろうか」という問いに「主にも不可能なことがあります」と答えるとき、それは、簡単に言うと神様を神様としないこと、神様の根本的自由を認めていないことを示します。
そして「主に不可能なことがあるだろうか」という問いに「神様に不可能なことはありません」と答えるときに、神様の自由を受け入れ、他のなにものでもなく、神様を神様として、すべてを神様に委ねると決断したことを意味するのです。
4.不可能なことはない 神様がなされたこと
そしてまた、この「主に不可能なことがあろうか」という問いに対して「神様に不可能なことはない」と答えるときに、私たちが見出す神様とは。
「不可能なことはない」・・・神様がなされたこと、そしてなされなかったことそれを教えるのが「聖書」です。今日の箇所では「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」(10)と言い、アブラハムとサラにイサクを与えると告げるのです。アブラハムとサラにイサクを与えました。信じて旅立ったアブラハムに約束の祝福を与えたのです。神様は、すでにあきらめた人生、不妊という生きる道に希望を与えるのです。
神様は、私たち人間の現実、それは闇という中に光を、死の中に光を与える方です。そして、そのために、人間に光を与えるために、主が自由のうちになされた出来事、そしてなされなかった出来事があります。
それは、主イエス・キリストをこの世に与え、十字架を取り除くということをなされず、死に向かわせ、十字架の上で死なされたのです。主イエス・キリストはこのように祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)
主イエスは、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られたのです。しかし、神様はその御心をもって、イエス・キリストを十字架の上で死なされたのです。神様がなされなかったこと、それはイエス様の杯を取りのけなかったこと。そしてその御心をもってイエス様を十字架に向けられたということを、なされたのです。
「神様に不可能なことはない」。
聖書は、その神様がなされたことをこのように教えます。それは神様が主イエス・キリストの十字架を通して、人間に光を与えたということ。神様は自らの御子をこの世に来させて、そしてその命を通して、その痛みと苦しみを通して、闇から光を、死から命を与えてくだったのです。
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