1: 無理解の弟子たち
イエス様の奇跡、わずかなパンと魚によって、多くの人々を満たしたという出来事を読むときに、いずれの場合も、主の弟子たちがすぐそばに、共にいたことが記されています。弟子たちは、いつも主イエス・キリストの隣で、その恵みを分かち合う者としていたのです。弟子たちが一番に満腹になり、主のパンと魚をいただいた者でありました。
しかしまた、この弟子たちには、主イエス・キリストを信じる揺らぐことのない信仰、主にすべてを委ねるという信頼の心がなかなか生まれていなかったのです。そこには人間としての無理解の姿と、心の弱さが表されます。
2: 空腹の群衆
そして、この人間の心の弱さを素直に表したのが近くにいた群衆でしょう。人々は、自分の心が弱り切っている中で、イエス様の御許にやってきていたのです。イエス様は、多くの人々が空腹で弱っているのを見たのです。人々は、ただ肉体的に飢え乾いているだけではありませんでした。人々は、心も魂も飢えていたのでしょう。心も、体も空っぽになって、生きる希望をも失っていたのでしょう。
3: イエス様の招き
社会において差別されていた人々、もともと人々の中にいれてもらえられない人が、この群衆のうちにいました。主はそのような者、すべてを含めて、すべての者を招かれたのです。主を求め、生きる道を求める者、そして、主の御許にやってくるものをイエス様は拒まれることはないということです。
わたしたちは、自らの罪深さから、神様に自分はふさわしくない者、もう教会にくるにはふさわしくないと考えたことがあるのではないでしょうか。神様は、そのような者、罪深い私たちを招いて下さっているのです。そのすべて罪を知り、その上で愛して、生かしてくださっている。そして、私たちを招き、命のパンで満たされることを望んでおられるのです。
4: イエス様の憐み
これまで何をしても飢えていた者。イエス様は、そのような者たちを憐み、命をかけて、自らを裂き、自らの命を裂かれて、生きる道を示されたのです。
イエス様は、心を弱く、不信仰の弟子たちにまず、その愛、その命の恵みをしめされました。イエス・キリストの十字架の愛。それは、自分のところでとどめておくものではありません。弱い者が、愛されて、喜び、そこから始まっていく、そこから揺り動かされていくものであります。不信仰で無理解な者。そんなものが愛されて、喜んで、一緒に愛し合うこと、そして一緒に喜ぶこと、そんな命の恵みの分かち合いが、神様の愛です。
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