1. 神様からのメッセージ
神様はアブラハムを選ばれました。神様は、アブラハムに御言葉を教えられすべての国民が祝福に入るために、すべての者が主の道を守り、主に従って正義を行うようになるために、アブラハムを選ばれたのです。アブラハムの役目は、すべての人々が主に向かって歩むように導くことです。アブラハムは神様の御言葉、そのメッセージをきちんと聞いて、しっかりと伝える役割をいただいているのです。
アブラハムは、神様と共に歩む者として、主に従って生きてきました。その一つの意味がここに記されているのでしょう。アブラハムは、「あなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める。」(創12:2)と言われました。それはアブラハムが神様の御言葉を受けて、伝えることから始まることです。
今、私たちは神様と向きあっているでしょうか。神様は私たちにどのような役目、役割を与えて下さっているでしょうか。
神様と共に生きることは、ただ自分が神様にすべてを委ねて、まかせっきりで生きるだけのことではないでしょう。むしろ神様の御言葉を聞いて、神様のメッセージを考えること。そして何度も神様と向き合いながら、いただいたメッセージを隣人と共に受け取っていくこと。その救いを伝えていくとき、一緒に喜んでいく時に、そこに本当の生き方を見出すことができるのではないかと思います。
わたしたちは神様の愛に気づき、受け取るものとされたのです。その信仰の中に入れられました。すべての人々が主に向かって歩むようになるために、働いていきたいと思います。
2. 罪の姿
ソドムとゴモラの罪については13:13においてすでに記されています。「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。」(創13:13)
ソドムとゴモラ、二つの町の罪は「ソドミー」という言葉から「男色」や「同性愛的行為」であったとも考えられています。19章において、ロトの家に来た二人の御使いに対して、ソドムの人々は「なぶりものにしてやる」と語ります。そのためにも、ソドムとゴモラの罪は性的な行為に限定されたものだと語られることが多いです。
しかし、罪とは、基本的には神様から離れた関係のこと、神様の思いから離れた状態であり、神様に反抗する社会が持つ無秩序そのものであり、責任感を伴わない様々な行為が挙げられます。
そしてそれは、わたしたち自身がもつ心の状態も変わることはないのではないでしょうか。私たちも時によって、無責任、無秩序の中で神様から離れて生きているのではないでしょうか。ソドムとゴモラに生きる人々、そのような心の闇が、確かに私たちの内にもあるのでしょう。
ソドムとゴモラに生きる人々は、それほど私たちとかけ離れた人々ではないでしょう。人間は、すべての人間が罪人です。すべての人間がソドムとゴモラという場所、神様から離れる心を持っているということです。
このソドムとゴモラから、私たちは自分の罪の姿を写しだされるのでしょう。
3. 執り成しの姿
そして、ソドムとゴモラのように罪人の姿が、私たちのうちにある人間の「罪」の本質であるように、アブラハムの執り成しの姿もまた、私たちの人間のあるべき姿でもあるのでしょう。
罪の姿が人間の内にあるように、神様の御言葉を聞き、執り成し祈る姿。この神様と向かい合い、しかも、自分のためではなく、人のために祈る姿勢が求められている愛の姿なのでしょう。そして、その中心に、イエス・キリストがいてくださることを覚えたいと思います。
わたしたちは「罪人」という本質を持っています。・・・が、そのすべてを覆いになってくださって、今も、私たちのために祈ってくださる方がいるからこそ、私たちも、そこに踏みとどまるのではなく神様に向かって歩みだす者となりたいと思います。
4. アブラハムの執り成し
22節において「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。」とあります。
「その人たち」。それは「二人の御使い」(19:1)のことであり、もともと3人(18:2)であったことから、そこには主が残ったとされます。主とアブラハムが残り、アブラハムは主の御前に残ったのでした。ここから主とアブラハムだけの対話が始まります。
アブラハムが神様に求めたこと。それはロトの救出だけでもなければ、また正しい人と悪い人を区別して守ることでもないでしょう。アブラハムは、神様の正義を求めたのです。神様の義、その裁きが多数の悪に目を向けるものとなるのか、少数の義に目を向けるものとなるのか、アブラハムは交渉し、執り成し、求め続けたのです。
アブラハムは神様に言います。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」(23-25)
このアブラハムの言葉に対して神様は言われます。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(26)
この執り成しの祈りは、50人から45人、そして45人から40人、40人から30人と続きます。そして30人から20人、20人から10人へと続きました。
そして、神様は「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」(32)と言われて去って行かれたのです。神様は多数の悪、その罪人によって滅ぼすことではなく、少数の義人、正しい人によって赦し、救いをもたらすことを示されたのです。
神様はご自身がまず、ご自身の心の中にあった、多数の悪によって滅ぼすという心を変えてくださいました。
大きな罪を見て裁かれるという見方・・・それはいつも私たちがしているお互いを受け入れない、理解しない見方、考え方ではないでしょうか。相手の小さな失敗、欠点を見つけて受け入れない、理解しない。そんな私たちがいるのではないでしょうか。
そして、そこにある小さな義を認める。それはおたがいの小さな良いところを発見してその素晴らしさを受け止める。そんな受け止め方、ここで、神様はそんな神様になってくださったのです。
私たちがお互いに、小さい欠点を見つけてお互いを受け入れないときに、そこには滅び、絶望、関係の崩壊しか生まれません。そのうちいること、存在の否定につながるでしょう。わたしたちはお互いの小さな良いところ、相手の存在をただ受け止める生き方、そして相手のために祈ること。それが何よりも救いをもたらすのでしょう。
5. 神様の赦し
神様は心を変えてくださいました。アブラハムの執り成しの祈りによって、神様は心を変えてくださったのです。神様はこれほどの赦しの用意をしてくださっています。ご自身が変わり、人間を受け入れる方となってくださるのです。
わたしたちは、主イエス・キリストの命をかけた祈りの上に生かされているのです。主イエス・キリストの祈りによって赦されていることを覚えましょう。
そして、わたしたちはだからこそ、わたしたち自身がお互いの為に、変わること、祈り合う者とされていきたいと思います。悲しみや怒りから、赦すことができない思いもあるでしょう。しかし、まず心を変えて、赦しを用意してくださった方の上に私たちが立たされていることをしっかり覚えていきたいと思います。
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