1: 求めるしるし
今日の箇所では、ファリサイ派の人々がイエス様を試して「天からのしるし」を求めた姿が記されています。ユダヤの人々、そしてそれを代表するファリサイ派の人々は、確かにメシアを求めていたのです。しかし、このファリサイ派の人々は、メシアを、そしてそのメシアのしるしを、自分たちのもつ「物差し」ではかろうとしたのです。
人々にとっての神様は、むしろ、はかりをもつ自分たちであったでしょう。みなさんは今、どのようなものを求めているでしょうか。わたしたちの求める神様、神様としてのしるし。わたしたちは、そのような神様を、自分たちの物差しではかる者となっていないでしょうか。
2: 主イエスは嘆かれた
12節において、「主イエスは、心の中で深く嘆いて言われた」とあります。主は、「不安に生きる」私たちのために、心の中で嘆いて下さるのです。「心の中」それは「霊において」という意味でもあります。主は、不安に生きる私たち人間のために、霊において、つまりその霊の力をもって、私たち一人一人の心の中にきて、共に嘆いてくださるのであります。
心の深く・・・、罪の深さ、心の嘆き、過去の痛みの重み、それぞれ自分が思っている以上に受け止めきれないものがあるときがあのではないでしょうか。イエス・キリストは、その心の中に、その奥深くの中、私たちが自分でも理解しきれない心の奥深くに霊の力をもってきてくださり、共に嘆いてくださるのです。
3: キリストの十字架
主は、しるしは与えられないと言いました。イエス様は、「今の時代の者たち」、つまりここで言えば、主イエスの十字架の起こる前の者たちには、その主イエス・キリストの十字架は与えられないと教えます。十字架の前のこの時代、そこには人間のイエス様がおられました。そこには、人間として共に嘆き、共に苦しみ、そして痛みを共に背負った人間イエスがまさにいたのです。
主イエス・キリストは、私たち人間の心の嘆き、苦しみの奥底に向かわれる中で、その本当の罪、人間の闇を背負う中で、十字架という死の苦しみを背負われていったのでした。これが、私たちを解放に導かれたしるし、わたしたちの主イエス・キリストの十字架の出来事であります。
4: 向こうに行かれたキリスト
最後に、キリストは、彼らをそのままにして向こう岸に行かれたのでした。主は、このあとの十字架に向かって歩んで行かれたのです。主は、自らが、先に十字架に向かい、へりくだり、従順に進み出て、私たちの心の内に来てくださるのです。そして聖霊の力を持って、私たちの心を打ち砕いて、そのうちに入り込んできてくださいます。
私たちは、イエス・キリストの恵み、その心からの愛を信じて従っていきたいと思います。
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