1.ソドムとゴモラの「罪」
今日の箇所は、聖書の中でも、ソドムとゴモラの滅亡の話としてとても有名な箇所です。そして、この話は、聖書では、18章アブラハムの執り成しの場面からすでに始まっていると言ってもよい箇所でしょう。今日の箇所において、人間の罪とその執り成しについて学びたいと思います。
ソドムの町に二人の御使いが向かいました。そしてロトの家に立ち寄った二人に対して、町の人たちが押しかけてきました。「彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。『今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。』」(4-5)
ソドムとゴモラの罪は、「なぶりものにしてやる」という言葉から、「男色」や「同性愛的行為」であったといわれます。言葉としてそのような意味があったともいわれます。しかしまた町、社会全体の「罪」として考えるときに、ソドムとゴモラは、その町、その社会が神様から離れていたとみることができるでしょう。その社会は、無秩序であり神様から離れた生き方を推し進める社会、自分の私利私欲のために生きる町であったのです。
そのような意味で、現代の私たちの生きる社会を見渡してみるときに、私たちはどのように生きているでしょうか。神様と向かい合い、悔い改めて生きているでしょうか。そしてそれは社会全体として、神様と向かい合って生きているでしょうか。自分の心、そして価値観を見てみるときに、わたしたちは自分のためだけに生きていないでしょうか。
神様を見上げることを忘れるときに、いつでも、私たちもソドムとゴモラのように、無秩序の社会に陥るのです。
2.ロトの救い
最初にも言いましたが、今日の箇所はソドムとゴモラの滅亡の話として有名です。しかしまた話は、途中からロトの救出劇へと移り変わっていきます。
神様の御使いは、この町を滅ぼしに来たと伝えます。そして急いで逃げるように伝えます。しかしロトは逃げることをためらうのです。「早く」と言われても、なかなか動くことができませんでした。主は、そのロトを憐れんで、手をとって町のそとに連れ出しました。そしてその上で、もう一度語られます。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」(17)
それでもロトは「できません」と答えます。そして「もっと近く、小さい町にしてください」とお願いします。そしてその願いを神様は聞き届けられたのです。
ここには、人間の弱さと神様の憐み、慈しみの大きさを見ることができます。神様が示してくださった救いの道。その救いの道を歩みだすことができない弱さを持つのが、わたしたち人間です。そして、そのような私たちの手を引いて、連れ出してくださる神様の姿を見ることができます。なんども何度も語りかけ、その手をとって、私たちを連れ出してくださる神様の姿をここに見ることができるのです。
そして最後に、「できません」と答えるロトの言葉のように、私たちの言葉「せめて、もう少し」「低く」「小さく」「近く」にと、お願いする私たちの願いを聞き届けてくださることを見ることができるのです。
3.神様の救い
今日の話は、神様の支配を道徳的事柄と結びつけて、「善人は栄え、悪人は苦しんで死ぬ」という単純な考えにつながってしまう時があります。しかし、そのような道徳主義は福音の中心ではないでしょう。聖書の語る福音は、罪の赦しであり、神様の愛です。なぜロトは救い出されたのでしょうか。
「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」(19:29)
神様はアブラハムの祈り、18章に記されている執り成しの祈りから、ロトの一家を救いだされたのです。神様は、アブラハムの祈り、その執り成しの祈りを覚えて、その祈りのゆえにロトとその家族を救われたのです。救いのためにアブラハムの祈り、執り成しの祈りがありました。そしてその中にあって、ソドムとゴモラの町では、ロトとその家族が神様に従ったのです。
ロトは、確かに神様の御使いを自分の家に迎えました。しかも少し強引に、一度断られても、ぜひにと勧めて立ち寄っていただいたのです。そしてもてなしました。町の人がその二人に乱暴をしようとする中で、自分の娘を犠牲にしてでも、家の中に迎え入れた人を守ろうとしたのです。そのような者として、ロトは守られたのです。
ロトとソドムの町の人々は何が違ったのでしょうか。
それは、ただの「行い」というのではなく、「行い」が表す信仰、神様との関係です。ロトは神様に従い、ソドムとゴモラの人々、また娘の婿、そして妻も神様に従うことはなかったということです。
4.神様の決意
ホセア11:8-9
「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」
ここで記されている「アドマ」「ツェボイム」とは、「ソドム」と「ゴモラ」を指しています。神様は、「神は神であり、人間ではないと」語ります。そして「罪に対して、怒りを燃やし臨むことはない」と語られるのです。
神様は、わたしたち人間の罪に対して、決して無頓着で、無関心なわけではありません。罪とは、神様との関係を崩壊させて、神様から離れていくことです。神様が悲しくないわけがないのです。罪を犯すとは、神様との関係を打ち壊すことです。罪を犯す時に、私たちは、神様を恐れる必要があるのです。
そんな中で、神様は、人間の罪、神様に対しての裏切りを受け止めて、そこから、戻ってくるように祈って待っていて下さっています。神様は罪ある私たちを愛で受け止めてくださっていることを覚えていましょう。
5.執り成しの祈り
神様はすべての者のために、今、罪の突破口を備えて、祈って下さっています。ロトと、その家族のように、私たち一人一人のために、神様が、私たちのために、備えの道を作って下さっています。そしてそのために、イエス・キリストが祈って下さっているのです。イエス・キリストが、私たちのために、執り成しの祈りを献げて下さっているのです。
私たちは、今、イエス・キリストの祈りを受け取り、そして、神様の備えを受け取って、お互いのために、祈りあっていきたいと思います。お互いのために祈りあうこと、お互いの祈りこそが、支えになり、導きになり、そして救いとなるのです。
アブラハムがソドムとゴモラのために、そしてロトのために祈ったように、私たちも、全世界の福音のために、そして社会のために、そしてそれは、お互い一人一人の救いのため、一日一日の歩みのために、執り成し、祈って歩んでいきたいと思います。
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