1.ロトの弱さ
今日の箇所でロトはツォアルを出ていきます。ツォアルとは、19章において、神様がソドムとゴモラを滅ぼす時に、ロトが逃げ出すために自ら滅ぼさないように神様にお願いした町ツォアルです。命を救っていただくために、小さい町ですが、命を守るために自らお願いした町、ツォアルです。ロトはその町を出ていきました。ロトが出て行った理由として、「ツォアルに住むのを恐れた」(30)とあります。ロトは、その町の小ささでしょうか、ツォアルに住むのを恐れて出て行ったのです。
これはロトの人生が表しているとも思います。これまでロトには、多くの選択の時がありました。もともと、伯父のアブラハムと同じ約束を受けて旅立った者ロトです。それがロトのこの旅の始まりだったのでしょう。ロトは、その最初の決断として、神様の御心に人生を委ねて歩み始めたのです。ロトは、アブラハムと共に神様に向かって歩みだした者でした。
しかし13章において、アブラハムと別れるときがきます。財産が増える中、共に旅をすることができなくなる中で、ロトはヨルダン川流域の低地一帯としてのソドムとゴモラに向かいます。ロトは、13:13「ソドムの住民は邪悪で主に対して多くの罪を犯していた」と記されている場所に向かったのです。これが次のロトの決断でした。ロトは、罪を犯す者が住む、肥沃で潤っている地を選んだのです。
そして、実際、主がソドムとゴモラを滅ぼしに来たときに、「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」(19:15)と言っても、ロトはためらって逃げる決断ができないでいたのです。逃げることができないロトは、神様の御言葉を信じ切るという決断ができないでいました。
そのなかで、神様がロトを憐み連れ出してくださった。そして逃げる道を示して、しかも山まで逃げるところを小さな町「ツォアル」までとしてくださったのでもありました。
そして今回の出来事です。
ロトは神様の示された町「ツォアル」を出ていきます。ロトは「ツォアルに住むのを恐れた」のでした。「ツォアル」とは「小さいもの」という意味で、ロトはその町の小ささに恐れたのでしょう。
確かに小さい町です。だから人間的に安全性に疑問をもったのでしょうか。恐れをもって出ていくのです。しかも、その後、洞窟に住むようになり、そこで酒に酔って、何も知らない中で娘たちの思いに飲み込まれていくのです。ロトはソドムとゴモラが滅ぼされるという神様の裁きの出来事を見ても、何も変わることはありませんでした。それでもロトは、人間的に「大きなもの」か「小さいもの」かという判断の中に生きていくのです。どこに神様が共にいてくださるかという判断の中ではなく、神様が与えてくださった「ツォアル」に住み続けることを恐れたのでした。
アブラハムとロトは神様の約束の旅を一緒に旅立ちました。そして、その中で、何度も神様から離れたことは、アブラハムもロトもどちらも変わりないでしょう。そして、それでもなお二人とも神様の憐みと恵みの内に生き続けたのです。その中で、アブラハムには、神様に向かって悔い改める信仰が表され、そしてロトには、罪を繰り返す弱さ、人間の肉の部分が表されているのでしょう。
私たちはどのように生きているでしょうか。人間には罪があります。神様から離れてしまう者としての弱さがあるでしょう。そしてその罪を何度でも繰りかえす弱さがあるでしょう。そしてそれでもなお、私たちは神様の憐みのうちに生かされているのです。そしてだからこそ、主イエス・キリストの十字架の御前に生きているのです。
私たちは、悔い改める者となっているでしょうか。それとも、罪を繰り返し、いつまでも変わらない者としての弱さに留まるのでしょうか。私たちは悔い改めるときに、何が喜びで、何が愛で、何が恵みとなるのか、きちんと確認したいと思います。神様が与えて下さった愛と憐みは、私たちにどんな道を示しているのか。本当に人生を改めていこうと思っているでしょうか。私たちは悔い改めるときに、人生を問い直して、きちんと再出発したいと思います。
2:ロトの娘たち
今日の箇所ではロトの娘たち2人が登場します。
聖書において同性の兄弟、しかも二人というのはとても難しい関係として示されています。カインとアベル、エサウとヤコブなど、同性で二人というのは比較されることが多いのでしょう。それでも今日の箇所で、女性二人の姉妹が力を合わせます。勇敢で大胆にも命をつなぐために二人は動き出すのです。この時二人はこの洞窟にあって、「世のしきたり」にあっては、すでに命をつなぐことの困難な場面にありました。この命を繋ぐことの困難を乗り越えるための執念とも感じられる行為として、父をお酒で酔わせてそこから新しい命をいただいていくのです。
今日の箇所は、命の尊さと、その命を繋ぐための人間の限界、そしてそれを越えてでも命を繋ごうとする人間の姿を見ることができます。それは現代においても変わらないことかもしれません。今も、さまざまな「不妊治療」がおこなわれています。そしてその中でも人間の倫理の問題として挙げられる「体外受精」や「代理出産」などがあります。
わたしたちは、「人間の限界」「命の尊さ」について、この箇所から神様の御業として与えられる命を考えさせられます。
3:モアブ人とアンモン人
最後にこの箇所においてこのように語られます。
「このようにして、ロトの二人の娘は父の子を身ごもり、やがて、姉は男の子を産み、モアブ(父親より)と名付けた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた男の子を産み、ベン・アミ(わたしの肉親の子)と名付けた。彼は今日のアンモンの人々の先祖である。」(36-37)
今日の箇所、特にロトの娘がロトをお酒に酔わせて妊娠していったということは、これはイスラエル人が自らを中心とした思いの内で蔑視された行為です。そこから生まれたモアブ人とアンモン人はイスラエルに近い存在でありました。しかし、イスラエルの人はそのモアブ人とアンモン人を蔑視するために、今日の箇所があるのでもあります。ロトの2人の娘の行為は、なんとか命を繋げた行為であり、しかしまた、それが神様の御業として望まれる行為ではないと、このモアブ人とアンモン人が生まれたことからも教えているのです。
ただ、わたしたちは、この蔑視されたモアブ人の娘ルツからオベドが生まれ、オベドからエッサイが生まれ、そしてエッサイからダビデにつながったこと。そしてそのダビデの末としてこの世に与えられたイエス・キリストがあることも忘れないでいたいと思います。
神様の憐みとしての主イエス・キリストは人間的にさげすまれたところに来てくださったということ。どのような者も受け止めて下さったイエス・キリストを知っていきたいと思います。
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由紀 (土曜日, 04 4月 2020 12:21)
ロトといいダビデといいこんな人達も救われるんですね
昔と現代の感覚が違うんでしょうけど