1.変わらないアブラハム
今日の箇所は同じような箇所が、創世記12章にも26章にもあります。特に12章はアブラハムがエジプトに行ってサラを「妻」から「妹」とした箇所です。そこから見るときに、変わらないアブラハムの姿を見ることができます。
12章では、エジプトで、アブラハムが妻サラを妹としたことによって、エジプトの王はサラを美しいと思い、宮廷に召し入れました。そのことから、エジプトの王ファラオとその宮廷の人々は恐ろしい病気にかかったのです。この時に、アブラハムは神様の御心がどこにあるのか学んだはずでした。
それから何年が経ったのでしょう。多くの出来事がありました。神様に義と認められる時、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創15:6)このような時がありました。また、「イシュマエルの誕生」、「アブラムからアブラハムへ」、「イサク誕生の予告」、「ソドムのための執り成し」「ソドム滅亡」など多くのことがありました。
今は、イサクの誕生の予告から、イサク誕生までの1年の時です。この1年間の中にあってアブラハムはサラを妻から妹とする、以前に恥ずかしいと思う失態を、しかも子どもが与えられるはずの妻を他者の妻としてしまったのです。
アブラハムは変わりませんでした。ここには変わらない人間の姿が表されているのでしょう。 どれほど努力をしても、良い出来事に出会っても、それは信仰者となっても、根本的人間としての姿は変わらないことがここに示されているのでしょう。
ただ、だからどのように歩むか・・・ということは変わることができるでしょう。それが信仰であります。人間として基本的な部分は変わらない。だからすべてをあきらめるのか、それだから自分で自分のために努力をするのか、そんな自分を受け入れてくださっている方と一緒に、他者のために生きるのか。私たちは基本的姿、基本的にできることは変わらないかもしれません。それでも進み、生きていくそんな生き方を変えていきたいと思います。それは、「他者のために」という姿で生きていきたいと思います。
2.アビメレクを導く神様
神様は、異邦人アビメレクにこのように言われました。「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」(3)アビメレクは「死ぬ」と言われたのです。
この後のアビメレクと神様の対話の中で・・・
「主よ、あなたは正しい者でも殺されるのですか。彼女が妹だと言ったのは彼ではありませんか。また彼女自身も、『あの人はわたしの兄です』と言いました。わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」(4-5)(アビメレク)
「わたしも、あなたが全くやましい考えでなしにこの事をしたことは知っている。だからわたしも、あなたがわたしに対して罪を犯すことのないように、彼女に触れさせなかったのだ。直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」(6-7)(神様)
このような対話がありました。
アビメレクの言う「正しい人」。それはついこの前に、アブラハムが執り成しの祈りの中でソドムの町にいるのならと叫んだ「正しい人」と同じ言葉です。そしてそれは、神様が罪を犯すことのないように導かれた「正しさ」でもありました。アビメレクは神様に守られて「正しい人」とされたのです。そしてだからこそ、その神様に導かれた道、サラを返し、アブラハムの祈りによって歩みだすことを教えてくださっているのです。
わたしたちの歩む道において、多くの誘惑、困難があるでしょう。そのような中にあって「正しい人」として歩む道。それは神様の導きによるものであるのです。神様はさまざまな誘惑の中にあって私たち一人ひとりを正しい道へと導かれています。そしてだからこそ、神様の御心を受けて歩むために、そこには「祈る」こと「祈りを受ける」ことが望まれているのです。
わたしたちは、お互いのために祈り合っているでしょうか。
3.祈り
アブラハムは、変わらない姿、失敗した姿を現してしまいました。罪の姿、情けない姿を現してしまったのです。しかし神様は、大きな罰と苦しみを与えられるのではなく、アブラハムに科されたことはアビメレクのために祈ることでした。
この時、アブラハムにとってみれば、アビメレクは敵対心を持つ者であったかもしれません。そんな者に対してでも、どのような者に対しても祈ること、そして神様の御言葉を宣べ伝えることが「預言者」とされるアブラハムの使命でした。そこには、むしろ自分勝手に生きるよりも、神様に従うという時に、祈らなければならないという上で、気持ちの上では大きな苦しみがあるかもしれません。それでもアブラハムは祈ること、祈り続けることが負わされた使命としてあったのです。
アブラハムのこれからの生きる道は、預言者として、つまり神様の御言葉を宣べ伝える者として、祈り続ける者として生きることです。それは失敗しても、間違えても、罪の横道にずれてしまったとしても、何度も神様の道に戻ってきて、神様の御言葉を宣べ伝え祈り続けるという使命が与えられているのです。
わたしたちはいつでも祈ることができるでしょうか。だれのためにでも祈ることができるでしょうか。敵対心のある者、憎しみを持つ者など、そのような者を愛して、神様の愛に包まれるように祈ることができるでしょうか。
最初の方で言いましたが・・・他者のために生きる。それがどれほど難しいか。この祈りを考えるときに、本当に教えられます。それでもアブラハムは失敗の中にあっても、変わることができなかった弱さの中にあっても、祈る者、そして神様の御言葉を宣べ伝える者として生きる道を示されたのです。
私たちもまた、このアブラハムの信仰に教えられて、神様につながって祈るものとされていきたいと思います。
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