1.神様の約束
神様はこれまでアブラハムとサラに何度も子どもが与えられるという約束をされてきました。そして今日の箇所は、ついに、その約束の子イサクが与えられる箇所です。神様は約束を守りイサクを与えてくださいました。神様の約束は成就されたのです。そのことを、新約聖書ではこのように語ります。
ヘブライ11:10-12
「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」
この時アブラハムは100才、サラは90才でした。ヘブライ人への手紙では「死んだも同様」と言われる人、アブラハムとサラでした。そこに神様の約束の言葉、その言葉の成就によって命が与えられたのです。
2.命のないところに命を
この時、アブラハムとサラには、自分たちの中から命を生み出す力はありませんでした。これから生きていく希望、そんな喜びがどこにあるのかと思うほどの老夫婦でした。アブラハムとサラの間には、新しい命を生みだし、新しく生きる力があったと言えないでしょう。
神様は、そのようなアブラハムとサラを通して、「死んだも同様」とされる二人から、命を与え、約束を成し遂げられました。神様は命のないところに命を、そして喜びのないところに喜びを与えてくださったのです。
これは神様の命の創造の出来事であります。神様は命のないところに、無から命を創造されたのです。しかもそれは、突然の奇跡の出来事ではなく、これまでの神様の約束が果たされるという形でなされました。神様は、その約束を成就することによって、命のないところに命を与え、喜びのないところに喜びを与えてくださるのです。
3.約束の子
今日の箇所は、「アブラハムにイサクが与えられた」という内容ですが、その中心にある神様からのメッセージは、神様の約束が果たされたということです。そしてその約束の中に命と希望が与えられたということです。神様はここでアブラハムとサラにイサクを与えました。そして今、私たちには、約束の子として自らの独り子イエス・キリストをお与えになったのです。命の基として、そして救いの源としてこの世にこられた方、神様の子イエス・キリスト。わたしたちは、このイエス・キリストによる神様の約束の成就を信じるのです。
聖書が教えていることは、命も希望も、わたしたちの内ではなく、神様の約束の中にあるということです。ただ神様の約束を信じることが一番の希望であるということです。神様は、私たちのうちにイエス・キリストを送ってくださったのです。私たちは、このイエス・キリスト、命の主を見るのです。そこには神様の愛があり、わたしたちは、その愛の故に一日一日生かされていることを教えられるでしょう。
4.サラの笑い「イサク」
サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」(21:6)
サラは笑いの源として息子イサクを与えられました。それは、喜びで満ちた笑いであり、恵みをかみしめた笑いであります。
わたしたちのうちにイエス・キリストがきてくださいました。わたしたちは、このイエス・キリストのうちに本当の喜びで満ちた笑いをいただきたいと思います。
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