1: 住むところがたくさんある
イエス様は「わたしの父の家には住むところがたくさんある」と教えられました。辛いときに一緒に苦しみを担い、喜びを分かち合う。一緒に笑い、一緒に泣く。そんな人が隣にいると、自分の生きる場所があると感じるでしょう。イエス様は「わたしの父の家には住むところがたくさんある」と語られました。それは、実際の住む場所のこともですが、主の家には住むところ、生きる場所がたくさんあるということです。それは一緒にいてくださる方、イエス・キリストがいてくださるということを意味しているのでしょう。
2: 迎えに来る方
わたしたち人間には、いろいろと生きる道、そして生きてきた道があります。主イエス・キリストは、そんな私たち一人ひとりと共に生きてくださる方です。
今日の箇所で、主イエス・キリストは、私たちを迎えに来てくれると語っています。私たちが生きる、この世界、この現実の社会においては、いつも、主イエス・キリストと喜びの関係にいるわけではないでしょう。疲れていること、苦しいことがあって、その時には、隣に主イエスがいてくださることを忘れてしまうこともあるのです。そんな時に主は私たちの心のうちまできてくださり、私たちと一緒に痛みを分かち合い、そして、私たちを迎えに来てくださると示しているのです。
3: 道であり、真理であり、命である
イエス・キリストは十字架に向かわれました。その十字架の道。それはイエス・キリストが自らの命をかけてまで、私たち人間の一人ひとりを受け止めて、共に生きてくださることを表された出来事です。それが主イエス・キリストの十字架の出来事です。主は言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」私たちの隣には、この命の方が、共にいつもいてくださる人生です。そこに、神様の愛が与えられているのです。
4: イエス・キリストと共に
今日は召天者の記念礼拝です。今、キリストの許にあって愛に包まれておられる方々の信仰を思い起こす時です。ゆっくり思い起こす時に、本当に、神様にしがみついて、苦難の中にあっても、いつまでも御言葉につながり歩み続けた、信仰の先輩を覚えます。それはただただ喜びに満ちた、恵みを素直に受け取った、姿ではなかったでしょう。時には、苦しみの中にあって、神様から離れて、悩みと痛みに苦しんだ信仰、そのような姿を思い起こすのです。
私たちは、この主イエス・キリストの御言葉を、もう一度受け取り、私たち自身の信仰を確認しましょう。そして、「道であり、真理であり、命である」主イエス・キリストを先頭に、主イエス・キリストと共に生きているということを、これからも覚えていきたいと思います。(笠井 元)
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