1.サラの思い
21章の始まりにおいてイサクが誕生しました。アブラハムとサラにイサク(笑い)が与えられたのです。「サラは言った。『神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。』」(21:6)サラは「聞く者は笑いを共にしてくれる」と喜んだのです。その笑い喜びは、アブラハムとサラだけではなく、ここからどこまでも広がっていくと確信した、サラの喜びの叫びでした。
しかし今日9節において、その笑い、喜びは、苦痛へと変えられていくのです。
この箇所において語る「からかっている」という言葉は、本来の意味では「たわむれる」という意味を持ち、「からかっている」、年上のイシュマエルがイサクをいじめているというよりは、むしろ仲良く遊んでいるといった光景だったのだと思います。普通に見れば、それは兄弟が仲良く、当時のイシュマエル15才ほど、イサクが3才ほどの年齢ですので、年上のイシュマエルがイサクと遊んであげているという姿であったのでしょう。
しかし、イサクの母サラにとっては、その光景を受け入れられなかったのです。「ハガル」を「あの女」として「イシュマエル」を「あの子」とするサラの言葉には、とても厳しく許せない気持ちを見る事ができるのです。
サラはハガルとイシュマエルを受け入れることができませんでした。誰かに対する「怒り」「憎しみ」という心は、その相手を苦しめるよりも私たち自身を苦しめるでしょう。だれかを許すことができない、共に生きる事を喜べない。そんな気持ちは、人間を笑いから苦痛の心へとするのです。この時はサラが一番苦しかったのではないでしょうか。そしてそんなサラの言葉を聞くアブラハムの心を非常に苦しめたのでしょう。
2.神様の御言葉を聞くアブラハム
サラは、アブラハムにハガルとイシュマエルを追い出すようにお願いします。アブラハムにとっては、実の息子イシュマエルを追い出すことはとても苦痛なことであったでしょう。この時、アブラハムは神様に祈り、その御言葉を求めたのです。
「神はアブラハムに言われた。『あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。』」(創世記21:12-13)
神様はアブラハムに語られました。そしてアブラハムは神様の言葉を聞き求めたのです。神様は「サラの言うことに聞き従いなさい」と言われました。そしてその神様の御言葉に聞き従ったアブラハムの姿があるのです。
「サラの言うことに聞き従う」。それはサラを一人にしない道だったのでしょう。そしてサラの「怒り」や「憎しみ」を共に受け取って生きる道です。苦しんでいる人と共に生きる道とはどこにあるのでしょうか。それは私たちの価値観、理解からはわからない時があります。アブラハムはサラとハガルと、どちらと共に生きるか、できるならば二人と共に生きていきたいと思っていたでしょう。アブラハムは悩んで、心を苦しめていたのです。そんな中で、アブラハムはただ神様の御言葉に聞き従いました。そしてそれはハガルを見捨てることではなく、ハガルを神様に委ねる道でもあったのでしょう。わたしたち人間には限界があります。わたしたちは自分の力の限界を知ること、そして神様に委ねることも教えられているのです。
3.ハガルとイシュマエル
アブラハムはハガルとイシュマエルを立ち去らせたのです。そしてハガルはベエル・シェバの荒れ野をさまようことになります。ハガルとイシュマエルの行く先、その未来はもはやありません。ハガルの歩みだした道は「さまよう道」「行きさきの無い道」でした。
そのような荒れ野をさまよう中で、ついに飲みものもなくなり、そこでは生きる力もなくなっていったのでしょう。ついにハガルは子どもを灌木の下に寝かせて、死を待つだけとなったのです。
「『わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない』と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子どもの方を向いて座ると、声をあげて泣いた。」(16)
ハガルは、息子イシュマエルの死を見ることは忍びないと離れるのです。それでも矢の届くほど、つまり、息子が死ぬのを見ることはとても耐えられないが、その死が誰にも見られず、守られることもないのも耐えきれなかったのでしょう。ハガルは声をあげて泣き、そして、このハガルの泣き声をきいたイシュマエルも泣いたのでしょう。
その声を主なる神が聞き届けられたのです。「神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。』(17-18)
4.イシュマエルを顧みられる神様
今日の箇所は、選ばれた者イサクと、選ばれなかった者イシュマエルとしての区別がはっきりされる場面です。この場面で聖書はイサクが未来を担う息子だと示すのです。アブラハムの約束の子ども、神様からの笑いとして与えられたイサク。そのイサクがすべてを背負う者であることをはっきりと教えるのです。
そして、選ばれない者が追い出され、荒れ野をさまよい、未来に希望のない道をさまよう場面です。しかしその選ばれない者イシュマエルが死を迎える、その寸前のところにあって、神様はイシュマエルの声を聞き届けられました。
神様の計画のうちにあって、アブラハムにイサクが与えられるという計画は、変わることのない、神様の約束なのです。しかしまた、神様にとってはこのイシュマエルも大切な命であったのです。神様は、イシュマエルを顧みられたのです。
神様は、わたしたちすべての者を顧みられました。神様にとってみれば、すべての人間が選ばれない罪人です。しかし、神様はそのような人間を顧みられ選ばれた者としてくださったのです。それは主イエス・キリストがわたしたちの為に選ばれない者となってくださったことによって、主イエスの十字架の死によって、わたしたちは顧みられたのです。
5.目が開かれる
「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。」(19)
神様はハガルの目を開かれました。そしてハガルは水のある井戸をみつけ、そこから生きる力を受けていくのです。ハガルは神様によって目を開かれたのです。それまではもはや荒れ野にあって生きる希望も見ることもできず、たださまよっていたハガルでしたが神様はそのハガルの目を開いて下さったのです。
神様が私たち人間の目を開いてくださるのです。私たちのうちにあってはもはや絶望にしか見えないなかにあっても、神様に求めるときに、神様はその目を開いてくださるのです。
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