先日御嶽山の突然の噴火で51名の尊い命が奪われました。8月の広島の集中豪雨の山崩れ・土石流による多数の死傷者と言い、今年は天候不順に加え、悲しい出来事が多いと感じています。あのような突然の噴火では逃れようもないことでしょう。人の生死を分けるものは一体何であるのかを考えさせられます。
1.物語の背景:テキストは有名なラザロの復活の物語です。ベタニア村に住んでいたマルタ、マリア、ラザロの兄弟姉妹はイエス様とは親しい友人でした。この村は、エルサレムから約3キロ、オリブ山の南東のふもとにあり、「苦渋の家」という意味です。エルサレムには住めないライ病人たちの施設があったのかも知れません。ラザロが重い病気になり、マルタ、マリア姉妹は弟のために主イエスに使いをやります。しかし、イエスは死後4日経ってからベタニアに到着します。
2.時間、空間の制約に生きる人間:マルタもマリアも、「主よ、もしここにいて下さいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と嘆きます。人というものは、時間と空間の制限の中に生きています。それを越えることはできません。マルタは「終わりの日の復活の時に、復活することは存じております」と応えます。しかし、一体、いまここで、希望がなく、命がなく、喜びがないとすれば、終わりの日のよみがえりは本当に私たちの希望になるのでしょうか。
3.復活者イエス・キリスト:主イエスにとって「距離」が問題にならないように、「時間」も問題になりません。なぜなら、主イエスこそが「よみがえりであり、命である」からです。復活はある未来の出来事ではなく、イエス様ご自身が「よみがえりであり、命なのです」。いま、マルタとマリアと死せるラザロの前にその主イエスが立っておられるのです。
4.主イエスの霊的憤り:33節に「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して」とあります。イエス様は何に対して憤りを覚え、興奮しているのでしょうか?新改訳聖書では、「イエスは霊的憤りを覚えて心の動揺を感じて」と翻訳しています。イエスは単に彼らの悲しみに同情し、一緒に悲しみ、涙されただけではなく、さらに一歩外に歩み出され、人間の最後の敵である死というものに「霊的憤り」を覚え、激怒、憤慨されたのではないでしょうか。神は命の主であり、イエス様は、死とそして愛する者たちの関係が切れることと闘われ、勝利されたのです。(松見 俊)
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