1.アブラハムとアビメレク
アビメレクは、今日の箇所の少し前20章の場面ですでに登場しています。アブラハムがゲラルに滞在している時、ゲラルの王はアビメレクでした。アブラハムはこの時、妻サラを「妹」と言ったのです。それは以前エジプトでも同じことをしたはずでしたが、アブラハムはまたも妻サラを「妹」と呼んだのでした。そして、サラをアブラハムの妹だと思ったゲラルの王アビメレクは、サラを自らの妻として迎え入れたのです。
神様はアビメレクにサラとアブラハムの関係を教え、直ちにサラをアブラハムに返すように示されたのです。アビメレクはサラをアブラハムに返し、そのアブラハムの祈りによって神様からの赦しをいただいたのです。
ゲラルの王アビメレクは、「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。」(22)と言ったように、そこには王としての強さ、国の軍隊の力、その他さまざまな財産をも超える、神様が共におられる人、それがアブラハムだと教えられた人でした。アビメレクのこれまでの常識を超えた存在でもあったのでしょう。
2.契約
アビメレクは、そんなアブラハムと契約を結ぶことを決めたのです。前回、アブラハムに騙されて、間違えてすべてを失ってしまいそうになったアビメレクです。だからこそ、ここでアブラハムときちんと契約を結ぼうとしたのでしょう。「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。どうか、今ここでわたしとわたしの子、わたしの孫を欺かないと、神にかけて誓って(シャバ)ください。わたしがあなたに友好的な態度をとってきたように、あなたも、寄留しているこの国とわたしに友好的な態度をとってください。」(22-23)
アビメレクは言いました。自分とも、自分の子どもにも、そしてそれは孫との間おいても、もはや欺くことのないようにと。神様に誓ってこれからずっと友好的であるようにと。アビメレクはアブラハムの恐ろしさというよりも、アブラハムの嘘によって、背後にいる神様を裏切ることのないように願ったのです。その契約の願いに、アブラハムは「よろしい、誓いましょう。」(24)と答えて、アビメレクとの契約を結ぶのです。
そして、この契約において、アブラハムはアビメレクの部下たちが井戸を奪ったことを伝え、そのようなことがないことを求めました。そしてその上で、新たに7匹のメスの小羊を別にして渡すことによって、確かに井戸の権利を受け取るのです。
これはアビメレクにとってみれば、これから神様に向かって間違いのないように求めた契約であり、アブラハムは一つの井戸を手に入れる契約となったのです。
3.井戸
アブラハムは一つの井戸を手に入れました。アブラハムにとっての井戸とは、生きる恵み、生きる命の泉としての井戸だったでしょう。アブラハムは、その大切な井戸、水の基を手に入れたのです。アブラハムはアビメレクと契約することによって一つの井戸を手に入れたのです。この出来事は、アブラハムにとっては自分の力によって得た井戸ではなく、まさに神様の恵みとして与えられた恵みの井戸であったでしょう。
アブラハムには、今日の箇所の前において、約束の子イサクがあたえられました。そこに笑いが与えられたのです。しかしまた、その直後において、ハガルとイシュマエルが荒野に追放されるという悲しみの出来事が起こっているのです。笑いは悲しみへと変えられました。そして、今日の箇所を挟んで、その後22章においては、アブラハムはイサクを神様に献げるということと向かい合います。
そのようなアブラハムにとっての約束の子イサクの誕生と死に挟まれて今日のアビメレクとの契約の場面があります。この場面で、アブラハムは一つの井戸を手に入れたのです。アブラハムは神様が共にいるということによって一つの井戸を与えられたのです。神様の約束「天を仰いで星を数えることができるなら、数えてみるがよい」「あなたの子孫はこのようになる」(創15:5)「わたしはあなたをカルデアのウルから導きだした主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる」(創15:7)。アブラハムはこの一つの井戸が与えられることによって、たしかに神様の約束の成就、その実現を教えられていたのでしょう。
4.礼拝する
アブラハムはアビメレクとの契約を交わしたのです。その契約によって、一つの井戸を得たのです。それは、まさに命の水。生きる泉であったでしょう。
アブラハムは一本の木を植えて、神様を呼び、神様に礼拝をします。神様を畏れることによっていただいた一つの井戸です。それはアブラハムの強さでもなければ知恵によるものではありません。アブラハムはただ、主を畏れるところに恵みがあることを教えられたのです。そしてそこに一本の木を植えたのです。木は水を必要とします。アブラハムは木を植えることによって、そこに神様からの恵みが与えられたことを記念する場所としたのです。
アブラハム自身が、神様に対して試練の中で、挫折や失敗を繰り返してきました。それでも「主が共におられる」という神様からの恵みによって、このような命の水を与えられたことを与えられたのです。
「永遠の神、主のみ名」。それは神様を畏れるときに、主がいつも共にいてくださることを教えられたアブラハムが、そこに永遠の神を感じたということでしょう。当時、水は一番といっていいほどに大切なものであったでしょう。神様はその水の湧き出る井戸を与えてくださった。そこに命を与えてくださったことをアブラハムが受け取ったのです。
神様はわたしたちに一つの井戸を与えてくださいました。それはイエス・キリストという尽きることのない命の水としての井戸を与えられた方です。「主が共にいてくださる」ということの実現としてイエス・キリストは与えられました。神様は救いの約束として、イエス・キリストを私たちに与えてくださったのです。
わたしたちは、このイエス・キリストとい命の井戸、神様の約束の実現を受け取るために、神様に礼拝したいと思います。アブラハムは、一つの井戸を与えられ、そこに一本の木を植えたのです。神様からの恵みを記念し、そして覚えて神様に礼拝したのです。
わたしたちはイエス・キリストによつ神様の命の水を、礼拝することによっていただきたいと思います。アブラハムが挫折や失敗した中でただ主が共にいてくださったように、神様は私たちと共にいてくださいます。わたしたちは、礼拝のうちに、その恵みをいただきましょう。生活の中にあって、神様を忘れてしまう時、神様の御心を考えもしないで歩んでいるときがあるでしょう。私たちは、そのような中で、もう一度神様に向かい合うためにも、礼拝を大切に、神様に呼び求めるときをもち、あゆんでいきたいと思います。
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