1: 祈り
今日の箇所は祈ることの大切さを教えています。祈りとは、私たちにとってどのようなものでしょうか。特別伝道集会で坂東先生は、「聖書は神様からの手紙」そして「祈りは神様への手紙」と教えてくださいました。祈りは神様への手紙ということです。現代的に言えば、神様へのメール、そして神様へのLineでしょうか。「祈りによらなければ」・・・つまり祈ることによって、神様と向き合って生きること、その中で私たちには本当の信仰、恵みが与えられるのです。
2: 傲慢という誘惑
悪霊とは、私たちを誘惑し、私たちの心が神様から離れるためにいつも働き続けるものです。今日の箇所において霊にとりつかれた一人の息子とは、誘惑によって自分自身を制御しきれなくなった人間の姿でしょう。弟子たちに一人息子を誘惑から解放していくことはできなかったのです。弟子たちは、そのイエス・キリストの福音を宣べ伝えることよりも、自分自身の力でどうにかしようと、自分たちの力で、この出来事を解決しようと一生懸命になっていたのでしょう。弟子たちの思い上がりや傲慢さ、「イエス様がいなくても」と思う、思いこそ、むしろ悪霊に取りつかれた状態と見ることができます。神様から離れてしまった、傲慢な思いこそ誘惑の中に陥っているのです。
3: キリストに向き合う信仰
父親は最初「おできになるなら、憐れんでください」と言いました。イエス様は言うのです。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と。イエス様は「信じる者にはなんでもできる」つまり「信じて、わたしに向き合いなさい」と、イエス・キリストから向かい合おうと語りかけてくださったのです。父親は、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と応えたのです。これが本当に神様に向き合った時の言葉、信仰の告白です。
「信仰のないわたしをおたすけください」と祈ること。それは謙虚にされること、主の前にひれ伏すことであります。
4: 招き
イエス・キリストは、私たち一人ひとりのことを招いています。それは手をとって立ち上がらせるように、主イエス自らがわたしたちの手をとって起きあがらせてくださるのです。主イエス・キリストは、私たちを招いています。それは謙虚になる者へと、そして自分の信仰ではなく、信仰のないわたしたちが、主の愛によって愛されていることを信じるという信仰でしょう。
私たちは、この主イエス・キリストの招きに応えて、祈るものへとされていきたいと思います。
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