エルサレム市内の羊の門と呼ばれる門の近くに「ベトザタ」と呼ばれる池がありました。ベトザタとは、ヘブライ語で「恵みの家」を意味します。7節には池の「水が動く」と言われておりますから、たぶん、そこには間欠泉があって、温泉が噴出するとき、最初にそこに飛び込む者が癒されたというのです。
1.癒しの必要性
私たちには癒しが必要です。そこに行くと癒される「恵みの家」が必要です。私たちは今日、どこか疲れており、心にも体にも傷を抱えて生きています。私たちの中から無尽蔵のエネルギーが湧き出てくるわけではありませんから、誰もが癒され、力をいただく「恵みの家」が必要なのです。
2.多くの人間的宗教の限界
しかし、なんと、残酷なことでしょうか。泉は時々しか噴出さないし、病気の重い人は、自分の力でそこに飛び込むことなどできないのです。恵みの泉のほとりでは、あるいは、かえって、我れ先きを争う醜い競争があったかも知れません。「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7節)という言葉にこの人の、そして周りの人々の呻きを聞き取ることができます。このことは、ユダヤ教はじめ多くの宗教の限界を暗示しています。多少の恵みがそこにあるので、近づくことができないのです。
3.恵みが向こうから近づいてくる!
1節には、イエスは、「エルサレムに上られた」とあり、先立って近づき、「良くなりたいのか」と声をかけて下さり、「起き上がれ」と命じて下さるのです。恵みそのものが私たちに近づいてくださる。もはや私たちは人を押しのけたり、自分の無力さや助けなきことを嘆く必要はありません。神の恵みそのものが決定的に、向こうから到来してくださり、私たちの目の前に共にいて下さり、私たちを助けて下さるからです。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのである」(17節)。神は6日間で天地万物を創造され、7日目に休まれたと創世記に語られています。しかし、主イエスの神は、苦しんでいる人がいれば、その人を決してほっておくことができないというのです。神は休むことなく働いておられる。それを受けて主イエスも、「わたしも働く」と言われます。
4.こちらからも動く
決定的に山が動いた。わたしたちは現在でも様々な山のような困難に直面していまし。しかし、神ご自身が働いておられ、イエス・キリストにおいて決定的にわたしたちに近づいておられる。わたしたちは自分を救うことからは解放されている。そうであれば、わたしたちも、祈りながら何かのために働くことを考えてみましょう。(松見 俊)
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