アドベント・クランツの3本目のロウソクに火が灯りました。クリスマスが近づくこの日、突然、衆議院議員選挙の投票日が入り込んできました。貧負の格差が拡大し、少しづつ、戦争の出来る国への歩みが進んでいることに、闇の力が増しているように感じています。しかし、闇は光をかえって輝かします。クリスマスを迎える準備として、詩編106編のみ言葉に耳を傾けましょう。この詩編はイスラエルの歴史を回顧して、「ハレルヤ。恵み深い主に感謝せよ、慈しみとこしえに」で始まります。
しかし、13節は「彼らはたちまち御業を忘れ去り、神の計らいを待たず、荒れ野で欲望を燃やし、砂漠で神を試みた」と語ります。神の恵みと慈しみの歴史は、実は、イスラエルの不従順と不信仰の歴史でもありました。そして、神の恵みと慈しみ、イスラエルの不従順と不信仰とが、絨毯の縦糸と横糸のように織り成す歴史のただ中で、「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれたモーセは、破れ担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主のみ怒りをなだめた」(23節)という印象深いことが語られています。この23節のみ言葉に注目しましょう。
「破れ」あるいは「破れ口」(ペレツ)とは何でしょうか。同じ表現がエゼキエル13・5と22・30にも同じ表現が登場します。破れ口とは、イスラエルの民が主なる神の恵みと救いにもかかわらず、少々の困難に出会うとすぐにつぶやいてしまう、そんなイスラエルの弱さ、愚かさ、不信仰がさらけ出された場所です。今日的に言えば、日本社会の最も貧しく、虐げられて、不安と絶望の中にいる人々の生きる場所でしょうか。
23節にモーセが登場します。イスラエルの民が神への不信を表し、主を忘れてしまったその時に、モ-セは一段高い所から彼らを非難し、審いたのではなく、しっかりと自分をこのイスラエルの破れ口に立たせ、主なる神の前にとりなしの祈りを捧げたのです。モ-セの偉大さはその信念の強さとか、卓越した指導力とか、エジプトで身につけたであろう当時の最高の博識とか、同胞を助けようと勇み立った正義感とかではなく、民の弱さ、愚かさを担い、イスラエルの最も弱い部分に立ち、彼らのために執り成しの祈りをしたという点にこそあるのです。
私たちはこのようなモーセ像を目にするときに、イエス・キリストの十字架を思い起こさざるを得ません。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。聖書の神は、不思議な神です。世界を審くべき、神のみ子イエス様が、世界の破れ口で審きを担っておられるのです。
このモーセとイエス様の存在を「思い起こし」、喜び、感謝し、私たちもこの世の破れ口で、執り成し、祈るものとなりましょう。(松見 俊)
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