1: 主の言葉を理解できない者
マルコによる福音書9章を見ていくときに、ここにはイエス様の言葉を理解することができない弟子たちの姿を見ることができます。無理解、不信仰の弟子たちの姿。「汚れた霊を癒す」ことはできず、「キリストの十字架と復活の言葉」を理解し受け入れることはできず、しかも「誰が一番偉いのか」と話し合う弟子たちでした。
2: 線引き
今日の箇所において、弟子であるヨハネはイエス様に言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」(38)
この時の弟子たちの姿。それは主イエスの御言葉を理解しておらず、自分たちの中でだれが偉いのかと話し合う、そのような「わたしたち」がイエス様の弟子たちの姿です。「やめさせる」とは「受け入れることができない」ことを表します。ヨハネは「自分たちに従わないで、イエス様のみ名を使う者」を受け入れることはできなかったのです。ここにヨハネによる、イエス様の弟子としての線引きであったのです。
3: 受け入れなさい
主イエスは「やめさせてはならない」と言われました。そして続けて「逆らわない者は、わたしたちの味方である」とも言われたのです。
この後、主イエス・キリストは十字架へと向かいます。「受け入れる」のは、神様であり、イエス・キリストによって、主なる神様が、私たち人間を受け入れたのです。神様はこのイエス・キリストの十字架、その死をとおして、私たち人間すべての者を受け入れられたのです。
神様はイエス・キリストを裏切り、逃げ出す者をも「赦されて」「受け入れられた」のです。
4: 赦された者の語る言葉
ヨハネも十字架を通して、神様の愛の大きさを知ったでしょう。そしてそのときに語る「わたしたち」という言葉、そこにある「わたしたちというイエス様の弟子」の広さは、今日の箇所を越えた、主の愛を注がれた者としての言葉となっていったでしょう。
神様に赦された者、愛されているという恵みを受け入れたときに、そのときに、本当に主イエス・キリストの弟子として生きている。そして主に従う者として喜んで歩み始めるでしょう。
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