1.神様のみが与える「命」
イサクは約束によって与えられた特別の子どもです。リベカも良い家系の出身でした。何も問題のないはずの家に不妊という問題がありました。イサクとリベカは生命を与える神様に対する祈りが献げます。命のため、未来のために、人間の出来ること、役割、そしてもっとも必要なことは、祈ること、祈り続けることだと教えています。祈る中で与えられる命は喜びであり、恵みであります。
しかし今日の箇所では喜びと共に、争いが記されています。その中では、ヤコブのずるがしこさや、エサウの軽率さが記されます。人間が生きる道には、神様の導きがあり、その命は神様の御業によって与えられます。それでもその道は、争いのない人生ではなく、争いがあり、間違えがあり、人間的弱さがあるのです。
2. 偏愛
「二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。」(創世記25:27-28)
ヤコブは「穏やかな人」と記されていますが、これは岩波訳聖書では、「非のうちどころのない人」と訳されています。それでもイサクはエサウを愛しました。イサクの食べ物への執着心から、イサクはエサウを愛したのです。そしてリベカは「非の打ちどころのない」ヤコブを愛しました。ヤコブは自分が欲しいものをくれるエサウを愛し、リベカは自分のうちにある子ども像の理想を愛しました。
これがイサクとリベカの偏愛、えこひいきです。このような親子関係、親の選り好みは、私たちがもつ心の本当の弱さを示すでしょう。この話はとても現実的な話ではないでしょうか。親は子どもを愛するものである。どんな子どもでも、同じように愛するべき、愛さなくてはならない。そんな人間の考えを打ち砕く、人間の弱さが示されているのです。私たち人間は完全な愛を持つ者ではないということです。
そして、この後、事実ヤコブとリベカの偏愛によってエサウとヤコブは争い、そして家族は崩壊へと向かったのです。それでも、そんな弱さが人間にはあること、むしろそれが人間であることが示されます。家族の中での争い、崩壊は事実人間の弱さとして現実に起こることなのでしょう。聖書は、そんな家族の争いを隠すことなく示しているのです。
そしてだからこそ神様の愛。本当の愛に立ち返ることが求められている。人間の内に完全な愛はありません。そしてだからこそ、争い、崩壊を招くなかで、そこに神様の愛の偉大さ、必要を知るのでもあります。
3. 疲れた時
ヤコブとエサウの物語が教える一つのことは、私たちが疲れた時は正しい判断が出来ないということです。肉体的に疲れた時には休むことが求められています。現代社会では、肉体の限界を感じても休むことができずに、精神的に追いつめられていく人々が数多くいるのです。
聖書の神様は、自らが休まれました。創造の7日目に休みを創造の一日として造られたのです。神様は休むことによって創造を完成されました。休むことは命の創造に必要だと神様が示されているのです。私たちは、疲れたとき休むこと、それが神様の命の創造の一部であることを知りたいと思うのです。
私たちは休むことは仕事、育児、家事をほったらかしているように感じるのではないでしょうか。それでも神様は休むこと、体も心も休めることの大切さを教えているのです。私たちは休むことも含めて神様に創造され、導かれているのです。
4. 未来を信じて待つ
今日の箇所において弟ヤコブは長子の権利を譲りうけます。弟ヤコブと兄エサウの違いはどこにあったのでしょうか。二人の求めたものの違い、それは「長子の権利:未来を信じて、待つ必要があるもの」か、それとも「食べ物:待つ必要がなく、今獲得できるもの」というものでした。
幼稚園には3~6才の子どもたちがいます。いろいろな子どもがいますが、年少さんは、将来のもの、未来のものをあまり「待つ」ことはできません。目の前に見えているものだけを獲得するので精一杯です。それに比べて、年中、年長と成長していくとだいぶ未来のもの1週間後、2週間後、もっと言えば、1年後の誕生日まで「待つ」ことができるようになりました。エサウは長子の権利を軽んじたのです。まだ見えない恵み、未来の喜び、神様の約束を待つことより、目の前の恵みを求めたのです。ヤコブは長子の権利という、未だ見えないものを信じて待つのです。私たちは、ヤコブの姿勢から、確かに「ずるがしこさ」や「抜け目なさ」をも知ることができます。神様に従うためにはそのような「ずるがしこさ」や「抜け目なさ」も必要であること、そのような知恵も神様の御業として生きることの重大さを教えています。それと同時に私たちは、ヤコブの姿勢から、神様を信じて待つ姿勢も学ぶことができるのです。神様の約束、神様が必ず与えてくださる恵みです。
そしてそれは「イエス・キリストの復活」。そして「神の国の到来」を信じることへと繋がるでしょう。私たちは、今を生きる者です。今ここに神の国、イエス・キリストによる神様の愛を広げていくことが私たちの使命でしょう。そして同時に、私たちキリスト者は、イエス・キリストの愛の到来、神の国の完成を待つ者です。それはどのような絶望のなかにあっても生きる希望、生きる勇気を与える力を与えて下さいます。
「長子の権利」は実際見えるものではありません。「希望」も見えないときがあります。それでも私たちは目の前にある苦しみや暗闇だけを見て生きるのではないのです。どのような時でも必ず神様は私たちを愛しています。私たちは、その神様の約束、愛、神の国の完成を待ち望み、そして信じて歩んでいきたいと思うのです。
5. 神様の義
ローマ9-11-15
長子の権利はアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてユダヤ人のものとしてユダヤ教の中で選民意識として受け継がれていくことになります。自分たちが約束の民であり、その権利は自分たちにあるという思いです。そんな選民意識からの解放のために、イエス・キリストの十字架と復活は、その長子の権利がすべての民へ広がるために与えられた恵みでありました。イエス・キリストはその壁を打ち砕いたのです。
イエス・キリストは、イサクの側(ユダヤの民、選ばれた者)にも、エサウの側(罪人、捨てられた者)にも立たれたのです。神様は、このように語られます。「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」。神様はその主権をもち、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。わたしたちは、自分たちの位置、考え、行いによって救いを得るのではありません。ただ神様の憐みによって、キリストという憐みに生かされているのです。
神様は人間を憐れみこの世にキリストを送ってくださいました。私たちはこのキリストによる神様の愛に生かされているのです。わたしたちはその恵みを受け取って、神様の恵みを喜んで歩んで生きていきたいと思います。
コメントをお書きください