1: 永遠の命を受け継ぐためには
今日の箇所では、まず、ある人がイエス様に「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(17)と質問をします。
イエス様は彼を見つめ、慈しまれたのです。この「彼を慈しむ」という言葉は、原文では「彼を愛した」となります。イエス様は、この人を愛されたのです。神様の御心として、神様は自由のうちに人間を愛してくださるのです。主なるイエス様は、その愛する者を慈しみ、だからこそ「欠けているもの」を教えられました。
2: らくだが針の穴を通る 不可能なこと
イエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」と語ります。イエス様は、ラクダが針の穴を通ることはできないと、それ以上に、金持ちが神の国に入ることはできないと語ったのです。誰であれ、少なくても財産をもっている。またこの世的力、名誉、力、財産をもっている、もちたいと願っているのです。
「それでは、だれが救われるのだろうか」とイエス様に問いかけたいと思うのです。
3: 神は何でもできる
「神には何でもできる」というと。自分の身を削ってまで、隣人を助ける無償の愛を「神様はできる」と教えているのです。神様は何もない者を、どのような者でも、愛してくださるのです。「何でもできる」とは、この無償の愛を表す言葉、そしてそれが人間にはできないことです。自分の財産を投げ出して、すべてを投げ出してまで、隣人のために尽くすことは、私たちにはできないでしょう。人間にはできないこと、そのことを、神様はイエス・キリストを通して、私たち人間にしてくださったのです。その命を投げ出してまで、そのすべてを投げ出してまで、神様は私たちを愛してくださったのです。
4: キリストに従うこと
ペトロたちはすべてを捨ててイエス様に従いました。しかし、この弟子たちも誰が偉いかを競っていたのです。自分たちの中では、誰が偉いのか、一番弟子は誰なのか、そのようなことばかりを競っていたのです。最後にイエス様のもとから逃げ出す、イエス様の苦しみの時に、イエス様を知らないと言う、それがペトロでした。
それでもペトロと弟子たち、それとイエス様に質問した人とでは確かに違いがありました。しかもそれは一番、大きな点であります。「イエス・キリストと出会って、受け入れたか。それとも立ち去ったのか。」この違いです。ペトロと弟子たちは確かに、イエス・キリストに出会い、そこから従い歩み始めたのです。しかしまた、この人はイエス・キリストを受け入れる手前で立ち去ったのです。
イエス・キリストは、私たちの欠けているところに来てくださり、従い歩むことを許してくださっているのです。主は、私たちにはできないことを、実現し、私たちに恵みを与えてくださりました。わたしたちは、その主イエス・キリストの愛、他者のために生きる愛を受けて、歩み始めたいと思います。
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