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2015.3.8 「居場所の発見」 ルカによる福音書15:11-32

 有名な「放蕩息子」の譬は、本来、いるべき場所からずれてしまった人間が神の懐に「居場所」を見出す物語です。人は、親子、兄弟、夫婦、友人、同僚という人間関係の中に生きているからこそ、喜びがあり、また苦悩もあるのです。

 1.父の存在よりも父の財産を愛した弟

「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前を下さい」。私たちは、この弟のように、神様の存在を喜ぶのではなく、神様から何をもらっているかに興味があるのではないでしょうか。人と比べて貰っているものが少ないと劣等感で悩み、落ち込んだり、逆に、人と比べて沢山のものを頂いていると思えば優越感を持ったりして一喜一憂するのです。

 2.持ちものはやがてなくなる

 弟息子は財産を整理し、金に替えて父親の目からなるべく遠ざかり、放蕩三昧をして、何もかも失ってしまいます。この譬え話のように極端ではないかも知れませんが、私たちの所有物は少しずつであってもやがて失われていくのです。お金も、仕事・社会的地位も、健康も、家庭も大切です。しかし、それらは決して神に替わることはできないのです。

 3.弟は我に返った

 譬え話は、そこで弟は、「我に返った」と言います。本当の自分を発見したというのではなく、「父の子であるという自分」に気がついたのです。人は関係の中に生きているのです。人はだれもここに帰らねばなりません。どんな人でも神から愛された神の子どもなのです。子であることは決して「資格」の問題ではありません。

 4.父なる神は駆け寄って来られる

 この譬では、息子が父を認める前に、父が息子を認め、息子に駆け寄ってその首を抱き、接吻したのです。父は毎日この日を希望し、息子を待ち続けていたのでしょう。このような父親イメージの神がイエス様の神であり、イエスご自身、十字架の死に至るまで、人を愛し抜かれた過剰な愛のお方であり、走り寄る神そのものであるのです。実はこの物語の兄も父の下にいたのに「居場所」を発見できず、結局、弟と同じように父の財産を欲していたのかも知れません。

 5.死んでいたのに生き返った

 なんという豊かな言葉でしょうか。関係の喪失は、死の現実であり、神との関係の中に自分の居場所を発見することは、生き返ることなのです。父なる神の下に今朝も立ち帰りましょう。(松見俊)