1: ヤコブとヨハネが求めたもの
今日の箇所において、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、イエス様の右と左に、自分たちをおいてくださいとお願いしました。ヤコブとヨハネはイエス様がこのエルサレムにおいてダビデの子として栄光を受けると考えていたのでしょう。私たち人間は、人間的名誉、権威、地位を求めるものです。今日の聖書の箇所におけるヤコブとヨハネは「名誉」や「権威」をもとめていました。
2: 神様が選び、招かれている
聖書は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)と教えます。神さまが私たちを選び、招かれたのです。ヤコブとヨハネは自分がイエス様についていくにふさわしいと考えていました。弱さを持ち、欠点を持つ人間。そして心には野心を抱き、人の心を理解しようとみせ、まったく理解しない者。神様はそのような私たちを選ばれた。神様がそんな姿の私たちを選びだし、招いて下さっているのです。
3: 「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」
イエス様の飲まれる「杯」、そしてイエス様が受けるバプテスマ。それはイエス・キリストの十字架という苦しみの杯であり、イエス・キリストが死に沈められたバプテスマであります。神様はイエス・キリストをこの世に送られ、私たちに、その愛を示されました。神様の愛。イエス・キリストの十字架は、私たちの生きる道、生き方を方向転換する出来事でした。私たち人間の価値観を変える出来事なのです。
4: 仕える者となる
「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」これがわたしたち人間の社会ではないでしょうか。偉い者が権力をふるうのです。権力。それは時には、軍事力による力であり、また時にはお金によるものであり、多人数が少数を認めないで押しつぶす力でもあるでしょう。この社会がいじめを起こし、差別を生みだし、そして多くの人々を巻き込んで戦争に向かうのです。
イエス・キリストは自らが自分を献げ、自分が仕えられる方となられました。それは、私たちが生きる価値観を正しく理解するために。生きるための、一番大切なものを知るためになされた、神様の愛の業なのです。
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