1. 祝福
まず、今日の箇所において中心となる「祝福」というもの。それは何だったのでしょうか。神様が与える「祝福」とは・・・今日は、そのことを頭に置きながら、今日は登場する各人たちの姿を見ながら考えていきたいと思います。イサクとリベカ、エサウとヤコブ。この4人の姿はそれぞれ違った立場の姿です。この4人の姿はそれぞれに違う姿として映し出します。その中心にあるものは人間としての弱さ、不完全さ、罪です。そしてそのような不完全な人間を通しても、神様は「祝福」を与えられる。神様は御業を行われてきたのです。神様はその「祝福」を不完全な人間を通して成し遂げていかれたのです。
2. 弱っていたイサク
今日の箇所においてイサクは弟ヤコブを兄エサウと間違えて、祝福を兄エサウに与えるつもりが弟ヤコブに与えてしまうのです。イサクは、自分が年をとり、もういつ死ぬかわからないと思ったのです。イサクは高齢になりました。そして目が見えなくなってきていたのです。自分が死へ向かっていると感じたのでしょう。体は弱くなり、いつ死ぬかわからないと思ったのです。
イサクは目がかすんでいく中で何を見ていたのでしょうか。そして何が見えなくなっていたのでしょうか。このあとエサウとヤコブを見ることができなくて間違えますので、確かに人間の視覚としての視力は失われていったのです。そして、同時に、イサクは体が弱くなる中で、神様を見るという信仰の目も失われていっていたのではないでしょうか。
イサクの姿は人間は体が弱っていくときに、その信仰も弱るものであることを教えます。死が近づき、自分の体が弱るときに、神様に生かされていること、生きる必要があることを感じなくなっていくのでしょう。そしてその時に、信仰も弱っていく、心に恐れが生じるときに、信仰は揺れ動く。私たちはそんな弱さを持っているのです。
3. イサクの失敗
その弱さの中で、イサクは大きな間違えを犯してしまいます。それはエサウとヤコブを間違えるということだけではないでしょう。イサクは4節で「わたし自身の祝福をお前に与えたい。」と言いました。この「わたし自身」は「わたしの魂」「わたしの命」とも訳すことができる言葉です。イサクは死ぬ前に自分の命を受け渡すための祝福をエサウに与えたいと言ったのです。イサクが与えようとした祝福は、「わたし自身の祝福」であり、「わたしの命の祝福」でした。
本来「祝福」とは神様による恵み、信仰です。しかし、イサクはその祝福を自分のうちにあると間違えたのです。自分の命は自分のもの、自分の魂も自分のもの、自分は神様に生かされているのではなく、自分の祝福も命も自分のものだと思い違いをしていたのです。
そしてイサクは大きな間違え、エサウとヤコブを間違えて、祝福を兄エサウに与えようとしてヤコブに与えるのです。イサクは自分の力に頼ったのです。イサクは自分の耳、聴覚によってイサクをヤコブと思ったのです。しかし視覚の弱いイサクは、触覚、嗅覚、味覚によって、イサクはヤコブをエサウと信じたのです。ここには人間の不完全さがあります。どれほど、自分の力では大丈夫だと思っても、しっかり理解できていると思っても、人間は不完全な者です。人間が自分の力を信じる時、その力が大きくしっかりしていると思えば思うほど、そこには誘惑があるでしょう。神様を忘れてしまうという誘惑です。神様がいなければ何もできないということ忘れてしまうのです。イサクは大きな失敗をしました。それは神様ではなく自分の力を信じたということです。イサクは神様を忘れて、自分の力を信じたのでしょう。
4. リベカの策略
リベカには大きな悩みがありました。エサウの嫁はリベカの悩みでした。嫁との不仲という悩みです。この嫁と姑という悩みはどのような時代にあっても変わらない悩みとしてあるのでしょう。リベカはその悩みからヤコブを愛したのです。そして、その偏愛の中、人間の勝手な思いを通しても神様の御心は実現するのです。リベカは策略をねり、祝福がヤコブにいくように考えました。その偏愛のゆえにヤコブに祝福がいくように考えました。リベカの偏愛は人間の心の奥底にある現実を表しているでしょう。わたしたちは、だれでも、好きな人、嫌いな人、受け入れることができない、そのような人間関係を持つのです。主は「互いに愛し合いなさい」と言われています。それは人間がお互いに愛し合うことができない弱さを持つものだからこそ、主の力、聖霊の導きの必要を教えているのでもあると思います。
5. ヤコブ
ヤコブは母親リベカの言葉が一番だったのでしょうか。それとも、そんな母親の言葉を聞いて、自分のしたいことの責任を母親に押し付けながら、本当は自分が一番の中心となってヤコブをだましたのでしょうか。どちらにしてもそのようなヤコブが得た祝福は、苦労の道の始まりであったのです。このあとヤコブが祝福を得た時、それは32章の神様の必要を本当に感じたときだったと思います。
創世記32:25-31
ここは、これからヤコブがだましたエサウと再会をする時、その前の夜のことです。ヤコブは祝福を得るのです。それは「顔を合わせて神を見た」とあるように、神様と必死に格闘し、捕まえて、逃がさない。何があっても本当の祝福を得るまでは。ヤコブが祝福を得た時は、この神様を必死に求めるときだったのではないでしょうか。この時、ヤコブは神様を必死で求め始めました。ヤコブは自分のずるがしこさ、策略だけではどうにもならない恐怖をまえに、すべてを神様に求めたのです。そして、ヤコブはエサウとの関係の回復に向かうのです。
イサクもリベカもエサウもヤコブも罪ある人間です。そして弱い者なのです。しかしその人間の罪をとおして、神様は御業をなしていくのです。それは、信仰の継承であり、神様にしか救いはないという思いです。
私たちにはイエス・キリストの十字架と死によって祝福の道が開かれました。それは神様が人間のところに来られた出来事です。神様は私たちに祝福の恵みを注がれているのです。だからこそわたしたちはこのイエス・キリストによる祝福を求め続けていきたいと思います。
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