1. だまし取った祝福
27章において、イサクとリベカ、エサウとヤコブという4人の家族の中で「神様の祝福」がどのようなものか描かれています。この家族で起きた出来事は、わたしたちにいくつもの疑問を与えます。
祝福はだまし取られました。ヤコブとは後にイスラエルと名前を与えられ、イスラエル民族の祖アブラハム、イサクに続く国民の基となった人物でしょう。そのヤコブが継いだ祝福はだまし取ったものだったのです。だまし取ることは許されるべき行為だったのでしょうか。そしてまただまし取った行為をなぜ神様は認め祝福の継承者とされたのでしょうか。
わたしたちの生きる社会において、だまし取ること、つまり詐欺的行為は認められません。むしろ悪事であり、だれからも受け入れられない出来事です。日本でも「おれおれ詐欺」から「振り込め詐欺」とはじまり、現在では「被害者、警察、弁護士」と、グループで何人もの人がそのふりをして「事件や事故に巻き込まれた」という言葉によって、お金をだまし取ったりと、その方法はとても巧妙な手口となってきています。
このような詐欺。人をだまして財産を奪い取ることなど、だれも認めません。許されることではないのです。しかし聖書においてヤコブは祝福を奪い取りました。そして最終的には神様の御心の うちに行われた祝福の継承であると教えられていくのです。私たちは、この神様の御業をどのように理解すればよいのでしょうか。
2. 祝福
27章においては「神様の祝福を受け取るのはだれなのか」ということを巡って話がすすんでいるのです。アブラハムからイサクへと受け継がれていった祝福を、エサウとヤコブのどちらが受けていくかということです。「祝福」とは、もともと神様とアブラハムの間に結ばれた契約です。
創世記12:1-3、創世記15:5-7、創世記17:4-8
神様はアブラハムを祝福しました。それは「わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。」と言われたように、神様がその財産として生きる土地の所有権を与えるという、現実的祝福でもあったのです。そしてその権利がアブラハムからイサクへ渡されました。イサクは神様との契約のうちに与えられた、その祝福をだれに継がせるかというところにおいて、エサウを選びだそうとしながら、ヤコブを選ぶことになったのです。つまり家族の長として、家族、土地の権利を継承する権利が、ヤコブに受け継がれていったのです。
3. 4人の思い
父イサクは自分が継承した権利をだれに受け継がせるかを考えました。「イサクはエサウを愛した」とあるように、イサクはエサウを愛していました。また長子の権利を譲ったとはいえ、本来長男でもあるエサウを祝福して、その権利を受け継がせるのは、本来普通の感覚と考えることができるでしょう。しかしリベカはヤコブが祝福を得るように願っていたのです。「リベカはヤコブを愛した」のです。そして、それだけではなくリベカに与えられた神様の御言葉「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」(25:23)という御言葉がリベカの心のうちにあったのかもしれません。そして、兄弟エサウとヤコブは、一度「長子の権利」について大きな出来事を起こしていました。エサウは長男であり長子の権利をもっていました。本来エサウが家族の長として祝福を受けていくことが普通であったでしょう。
しかし、長子の権利はエサウからヤコブへ譲られていました。食べ物と引き換えにエサウはヤコブに長子の権利を渡していたのです。このように、聖書では各4人の家族の思いがここでめぐり、いろいろな考えがいきかっていたのです。
4. 神の御心
27:1-29において祝福はイサクからヤコブへと受け継がれていきました。「祝福」についての4人の考えは一つの結論へと導かれたのです。今日の箇所は、この導きに対するイサクとヤコブの怒りと悲しみを描いているのです。
ヤコブが祝福を受けたのち、兄のエサウは狩りから帰って、料理を作り、イサクのもとにやってきたのです。しかし、そのときすでにイサクはヤコブへ祝福を与えていたのです。イサクはエサウが来たことにびっくりしました。先ほど祝福を与えたのはだれなのか。「イサクは激しく体を震わせて言った。『では、あれは、一体誰だったのだ。さっき獲物を取ってわたしのところに持って来たのは。実は、お前が来る前にわたしはみんな食べて、彼を祝福してしまった。だから、彼が祝福されたものになっている。』(創27:33)
イサクは激しく体を震わせました。それはリベカとヤコブの策略にだまされた怒りからでしょうか。また自分の間違えによる悲しみでしょうか。ここでの体の震えは、それ以上のものを示しています。そこに神様の御心があったことを知ったことです。
創世記27:36-37
イサクは、「今となっては、お前に何をしてやれようか」と言います。神様の御心によって導かれ行われた「祝福」を残しておくことなどできないのです。イサクは自分の思いを越えた神様の御心を知ったのでしょう。自分の計画が崩れていくなかにあっても働かれる神様の思いを教えられたのです。イサクの思いは阻まれました。エサウを愛し、エサウを選びだし、エサウに祝福を与えようとしたイサクの思いは、リベカとヤコブの策略によって阻まれたのです。そしてそこに神様の導きと選びがあることをイサクは実感したのでしょう。
5. 逃亡者
主はヤコブ(イスラエル)を選ばれ、エサウ(エドム)を選ばれなかったのです。旧約聖書における祝福が受け継がれていく出来事は、神様の主権性を教えます。神様はイスラエルを選び出したのです。祝福は神様との契約であり、神様の御心によって受け継がれていくのです。しかしまた、祝福された者の道は、皮肉にも逃亡という道でもありました。祝福によって与えられた土地から逃げ出すヤコブがいるのです。それは現実として祝福されたイスラエルが人間的世界において、逃亡者となっていたことをも示すものです。このヤコブの姿は、捕囚の身となり、分散されたイスラエルの民が、どのような状態であっても祝福された者であることを分かち合う物語でもありました。
6. 祝福された者の道
ガラテヤ3:6-9、3:26-29
イエス・キリストを信じる信仰によって、わたしたちは祝福へと入れられます。それは、逃亡者への道かもしれません。この世的考えから、その社会的ルールによる考えからの逃亡者。イエス・キリストの十字架によって新しくキリストを着た者です。キリストの十字架に従うものです。そのような者が歩む道は、決して豊かで喜びの道だけを歩むのではないでしょう。しかし、そこに神様の祝福があるのです。
どのような場面にあっても、神様はキリストを通して人間を祝福へ入れられました。わたしたちは、「神は我々とともにおられる」という祝福を受け取っていきましょう。
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