1. 逃亡者の道
兄エサウから長子の権利も、父からの祝福も奪い取ったヤコブでした。しかし、ヤコブが受けていく出来事は、兄エサウから命を狙われ、逃げるということでした。兄をだましてまで幸せを勝ち取ったはずのヤコブが受けたのは、祝福や喜びではなく、社会からの追放、逃亡者となることでした。
ヤコブは「とある場所」で一夜を過ごします。それは、安全を確保された町や村、名前のある場所と場所の間、もっとも危険な場所、そして不安と孤独な場所です。「とある場所」この言葉は、ヤコブの孤独と不安な気持ちを表します。裏切り者として、命を狙われ社会から逃げ出したヤコブです。喜びや祝福のために練った策略は、失望と悲しみとなってしまいました。ヤコブはこれからの生きる目的も分からずに、不安の中でただ「とある場所」を生きていたのです。
ベエル・シェバからハランへ。その道の途中の「とある場所」。ベエル・シェバという神様との契約の場所から、ハランという祖父アブラハムが信仰の出発をしたところに向かうのです。それは信仰の意味、生きる目的を失ったことを表しているのではないでしょうか。神様との関係においてまっすぐ繋がれた道を歩んでいたはずが、まったく逆の道を歩まなくてはならない。これからの生活、信仰も未来が見えていない道です。そこに生きる道筋はみえていなかったでしょう。
逃亡者ヤコブはそんな気持ちの中「とある場所」もっとも危険であり、孤独な場所に一人でいたのです。
2. 傍らに立つ主
孤独と不安に押しつぶされそうなヤコブの傍らに神様は立ちます。神様は、逃亡者ヤコブと同じ立場、同じ目線、同じところに立って下さったのです。それが私たちの神様、そしてそれは、イエス・キリストによって表された神様です。
裏切り、逃亡者となったヤコブです。この時のヤコブの心は、さまざまな思いがあったでしょう。不安と孤独、失望と悲しみ、そして罪悪感。このヤコブの思いをだれが受け止めることができるでしょうか。わたしたち人間には限界があります。どこまでも共に歩くといっても私たちは違う人間です。本当に同じ立場、同じ目線に立つことはできないでしょう。それが人間です。その中で、ただ一人神様だけがこのヤコブの心の痛みに、ご自身を結び合わせて下さるのです。神様は、人間の心の痛み、苦しみを知るために、階段を繋げて傍らに立って下さいました。神様は自ら階段を地に降ろし、階段を通して、自らが主体的に私たちに出会い、傍らに来られたのです。神様は私たちの傍らに立たれたのです。それは、孤独と不安、そして失望と悲しみの中で生きる希望を失った者に、神様は、自らが主体的に働かれ出会って下さることを教えます。
3. わたしはあなたと共にいる
神様は傍らに立ち言われました。「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」神様の御言葉が約束となり、この約束はヤコブの不安と孤独を取り去ります。神様は出会いの中で御言葉をもって約束を示されます。それは、「共にいる」ということ、そして、「必ず連れ帰る」ということ、そして、「決して見捨てない」ということでした。ヤコブはこの約束を示されました。そしてこの約束を信じて歩きだすのです。
神様は、今、私たちの傍らに立ち、御言葉を注いで下さるのです。それは、私たちに出会って約束の御言葉を注いでいるということです。私たちと「共にいる」という約束。「必ず連れ帰る」それは、「神の国」に必ずつれて帰るということです。「神の国」の到来を信じる私たちに希望を持って生きることを示す約束です。そして「決して見捨てない」と、「イエス・キリストの十字架と復活」を示して私たちを「決して見捨てない」と神様は語られているのです。
4. 応答
ヤコブは夢の中で神様に出会ったのです。しかし、その夢の中での出来事は、ヤコブの現実を変えることになりました。ヤコブは神様に応答することを決断したのです。神様は、どこでも、どんな時でも、私たちの共にいて下さるのです。ヤコブは夢の中で、そのことに気がついたのです。私たちは、いつ応答するのでしょう。いつ、決断するのでしょう。ヤコブは、誓いをします。それは、神様の約束に応答する決心と決断を表した信仰告白です。そして、ヤコブは、礼拝する者へと変えられました。そして、具体的行動、十分の一を献げる者と変えられました。私たちは、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに生きて、死に、そして主の御許にむかうのです。私たちはイエス・キリストが共に生きて下さる恵みを喜んで受け取りましょう。そしてその中で、喜んで礼拝し、喜んで生活して生きていきたいと思います。
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