1: 神殿での行為
祭司長、律法学者、長老たちはイエス様に問いかけます。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」(28)「このようなこと」とは、今日の箇所の前にある出来事、いわゆる「宮清め」の出来事を指しています。イエス様は、神殿とはすべての国の祈りの家、つまり人々が神様に出会う場所であると教えられました。イエス様は神殿を父の家と呼び、神殿を自らの体として、その神殿崩壊がキリストの十字架を表していることを教えられました。
2: 律法学者たちの権威
「権威」とは、別の言葉でいえば「権限」「権力」という言葉であり、また、同様の意味の言葉として「パワー」という言葉にもなります。律法学者たちにとっての権威とはまさにパワーでありました。権威主義としてパワーをもって人々を押さえつけるのです。権威を人間的パワー、弱い者を受け入れず、小さい者を押しつぶすパワーとして理解する考え方は、私たちの生きる現代においても変わることはないでしょう。力をもてば、力をもたない者を傷つけるという連鎖は、人間の社会において起こっていくとても悲しい連鎖なのです。
3: 「分からない」 よりどころ
イエス様は、ヨハネのバプテスマの行為が神様のものであったのかを問いかけます。イエス様は、この「ヨハネのバプテスマは天からのものだったのか」という問いから、ユダヤの指導者たちに、もう一度、権威とは何かを考えさせたのです。
先ほど「権威」とは、別の言葉でいえば「パワー」として受け取ることができると言いました。この「権威」という言葉はほかにも意味があり、別の意味では「影響力」「よりどころ」という意味もあります。律法学者たちは、イエス様の問いに対して「分からない」と答えました。それは本当の「よりどころ」が「分からない」という答えです。わたしたちは、今何を「よりどころ」、私たちの「権威」としているでしょうか。
4: キリストの権威
聖書が教える権威。それはイエス・キリストの十字架にあります。神様は、自らの権威を十字架の上に示されました。わたしたちの「よりどころ」はキリストの十字架にあるのです。神様は、キリストを通して、罪ある者の罪を赦し、悪霊を追い払い、そして仲間から排除されていった者を受け入れられたのです。そして憐みを求める人に目を向け、真の命の回復をされたのです。神様はその権威をもって人間を愛されたのです。私たちは愛されているのです。神様は自らがすべての人々の痛みを知り、苦しむ者を憐み、悲しむ者を悲しみから解放される権威として、イエス・キリストの十字架を示されたのです。
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