1 状況設定
今日の箇所は、これから始まるヤコブとラバンの物語の状況設定の場所です。ヤコブとラバン物語の始まりです。これからヤコブは伯父ラバンのもとで寄留する者となります。その話は、ラバンによるヤコブへの欺きがあり、そして子どもの話へと続き、今度はヤコブがラバンを欺くというお話です。話としては、欺きによって兄から祝福を得たヤコブ、争いの人生を歩んできたヤコブが、ここでもラバンと争い、妻と争う出来事があるのです。そしてその中から逃げるように出ていくヤコブが、結局のところ約束の地に戻るのです。この話を通して、逃亡者であり無一文であったヤコブが、祝福された者として多くの財産、多くの家族を連れて約束の地に帰ってくることになります。
今日の箇所はこのヤコブとラバン、そしてラケルとレアを含めたラバンのもとでのヤコブの寄留者としての物語の最初、開始の部分となります。
28章では「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。」(28:10)とありますが、今日の箇所では「ヤコブは旅を続けて、東方の人々の土地へ行った。」(29:1)となり、ハランに入っていったというよりは、異郷の地に入ったことを教えます。ヤコブはこのあと「皆さんはどちらの方ですか。」「わたしたちはハランの者です」(4)と、人々との会話によって、ここが目的地であることを知るのです。
ヤコブは目的地「ハラン」にたどり着きました。この時、このあとヤコブが多くの財産、多くの家族を連れて約束の地に帰るということをだれが予想していたでしょうか。ヤコブも、話をしている人々も、この後登場しますラバンも、レアも、ラケルも、だれもこのヤコブの姿を想像することはなかったでしょう。この物語、「ヤコブの旅」は私たちの人生を表しているのではないでしょうか。人間はだれもが何も持たずに生まれます。まさに無一文の状態です。そこから、多くの争い、人間関係の確執、欺き、欺かれる。それは家族との関係においてさえもです。一人ひとりに違った痛みがある、だれもそれを理解することはない、そんなわたしたちの人生です。それでもそのような私たちが神様の御許に帰るときがくるのです。だれも予想もしていない、神様の愛に帰るときが来るのです。神様は人間的な思いを越えて働かれます。苦しい人生、争い、確執、ねたみ、嫉妬など、その苦しさの中にあっても神様が共にいて、神様が導いてくださっている。そんなヤコブの姿を見るときに、私たちはそこに神様の偉大さ、命の創造主であり、養い主である神様の大きな愛をみるのではないでしょうか。
今日は、そんな「ヤコブの旅」を設定する最初の場面です。
2 異郷の習慣
ここには異郷の羊飼いの習慣が記されます。ここではすぐに理解のできない言葉です。ヤコブはこの状況を不自然に思いました。そのヤコブの思いは、このあとの言葉に表されます。「ヤコブは言った。『まだこんなに日は高いし、家畜を集める時でもない。羊に水を飲ませて、もう一度草を食べさせに行ったらどうですか。』」(7)ヤコブにとって、家畜を集めるときは、「夜」です。家畜たちが群れとなって休むときという思いがあったのでしょう。水を飲み、草を食べ、そして夕方になってから羊たちを集めるのです。そのようなヤコブの習慣から見てみると、ここに群れを集め、井戸の前でぼんやりしている羊飼いたちは、ただゆっくり休んでいるだけ、羊に草を食べさせることもしないで怠けている者たちと見えたのでしょう。
しかし、この方法はこの異郷の羊飼いにとっては、お互いの使用権を確認する大切なことであったのです。「すると、彼らは答えた。『そうはできないのです。羊の群れを全部ここに集め、あの石を井戸の口から転がして羊に水を飲ませるのですから。』」(8)
ここでは、羊の群れを全部集めてから、石を転がして水を飲ませるのです。そこにはまだラバンの群れが到着していなかった。ラバンの羊たち、そしてその羊の世話をするラケルが到着していなかったのです。ヤコブはこの異郷の習慣を知りませんでした。ヤコブは自分の常識を越えたものがここにはあることを知るのです。自分にとってみれば怠けて、時間の無駄遣いをしていると思った出来事が、大切なお互いの権利を尊重する出来事だったのです。
そのような中でも、ヤコブはこのハランの人々には、とても注意を払っています。4節からハランの人々との会話を始めます。そこではナホルの息子ラバンのことを聞きながらも、「元気でしょうか」と聞き「元気です」と答えを受け、そんな会話を通してからこの言葉を話しました。しかも、「~しなさい」という言葉ではなく、「~するのはどうでしょうか」ととても気を使い、関係を悪くしないような言葉となっています。そのような言葉のやりとりから、この地での習慣を知り、理解したのです。このヤコブの姿に、人間の関係を造っていくための知恵、そして慎重さを見ることができるのではないでしょうか。
3 ラケルの登場
ヤコブがハランの人々と話をしているときに、ラケルが登場します。ラケルはラバンの羊の群れを連れてきました。そしてヤコブは、ラケルを見るとすぐに、ラケルの連れるラバンの羊に水を飲ませたのです。そしてヤコブはラケルに口づけし自分がだれであるか、その自己紹介をして、ラバンに出会います。そしてラバンにすべてを話しました。
ヤコブはすぐに羊に水を飲ませ、ラケルは走ってラバンを呼びにいくのです。そしてラケルの話を聞いたラバンはヤコブのために走って迎えに行きました。ここで突然、「すぐに」「走って」と話が早くなっていくのです。
ヤコブは、この時をどれほど待っていたのでしょうか。ベエル・シェバを出発してから、このハランの地に着くまでどれくらいの時間があったのでしょうか。そしてついにハランの地において目的のラバンに出会うのです。そして「ラバンは彼に言った。『お前は、本当にわたしの骨肉の者だ。』」(14)「骨肉の者」とは親しい親族関係を表します。ヤコブはラケルに会い、泣きました。そしてすぐにラケルの仕事を終わらせて、自分がだれであるかを教えて、ラバンに出会ったのです。
ヤコブの孤独は想像を超えるものだったのでしょう。そしてそれはわたしたちにも言えることだと思います。人生はそれぞれに孤独なものです。孤独は想像を超えてつらいものです。わたしたちにはそれぞれに、自分にしか理解できない痛みがあり、苦しみがあります。それでもヤコブがラケルに出会い、ラバンにすべてを話したように、私たちもお互いに痛みを分かち合う者となっていきたいと思うのです。ラバンは親しい親族であることを伝えました。ヤコブの話を聞いて、その痛みをすべて理解したわけではなかったでしょう。それでもラバンは親しい者としての関係を持ったのです。
私たちは、お互いにすべてを知ることはできなくても、励ましあうことはできるのではないでしょうか。それはすべてを知ってくださる方、神様につながる者として。神様がお互いのすべてを知ってくださっている。イエス・キリストという原点、土台があるのです。私たちは、そのようなイエス・キリストによる神様の愛という土台のもとに、お互いのために祈り、励ましあう者とされていきたいと思います。
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