1 子どもが与えられる
子どもが与えられることは、当時のイスラエルだけではなくほとんどすべての時代、文化の中にあって恵みとされてきました。特に名前、家、氏族をつなぐために子どもは喜ばれ、その中でも男の子が優先されてきました。それは今でもあまり変わっていないかもしれません。子どもが与えられることを恵みとすることは悪いことではないですし、喜ぶことは普通のことです。しかしその思いが時には、子どもが与えられない者を傷つけています。男の子を喜ぶことも悪いことではありませんが、女の子も変わりなく喜びたいと思います。子どもが与えられていることも、子どもがいないこともそこに神様の恵みが注がれていることをみていきたいと思うのです。わたしたちはこのことをしっかり心にとめて今日の箇所を見ていきたいと思います。
2 疎んじられている者
「主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれた」(新共同訳)「主はレアがきらわれるのを見て、その胎を開かれた」(口語訳)
神様は疎んじられている者、嫌われている者を顧みられました。しかも家族のうちにあって、疎んじられた者、嫌われた者です。家族は最初に愛することを感じる関係ではないでしょうか。誰かを大切にすること、大切にされること。それは自分に必要か、必要でないかという思いを超えた関係です。家族には、家族だけには愛されるはず、それが私たち人間の思いです。
ヤコブはラケルを愛していました。レアは父親ラバンの策略のうちにヤコブの妻となったのです。今日の箇所のレアの姿は家族に愛されずに生きる者の姿を見るのです。レアの姿のようにわたしたちも家族に愛されない、愛することができない。そのような現実を突きつけられるときがあるのではないでしょうか。家族には愛されるはず、しかし家族にも愛されない、家族を愛することができない心。私たち人間にはそのような心の弱さの部分があるのではないでしょうか。その人間の弱さを今日の箇所はヤコブ、ラケル、レアの関係によって表します。
家族に愛されない者を支える愛。神様は家族に疎んじられている者、嫌われている者に目を向けられました。誰からも愛を受け取ることができず、また愛することができなくなった者を、無条件に愛してくださる方がおられるのです。
「主はわたしの苦しみを顧みて(ラア)くださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない」(32)「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ(シャマ)、またこの子をも授けてくださった」(33)「これからはきっと、夫はわたしに結び付いて(ラベ)くれるだろう。夫のために三人も男の子を産んだのだから」(34)「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」(35)
神様はレアを顧みられました。家族といえども人間の関係です。人間の力による思いだけでは完全な関係、愛の結びつきはできないのです。神様は家族との関係が壊れてしまった者、家族から愛を受け取ることができない者、家族を愛することができない者を支えられます。それはもっとも基本的愛をもって顧みられる方がおられることを教えているのです。
3 嫉妬
ラケルには妬みという心が生まれます。どれほどに大切に思いあう「想い」があっても、現実の目の前にある幸せそうな姿はラケルの心とヤコブの心のつながりを崩していきます。
ヤコブは子どもを与えるのも与えないのも神様の御業によると言います。「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ。」ラケルは、その言葉に対して人間的策略を用いて解決しようと考えるのです。アブラハムの妻サラが自分の召使いハガルを与え子どもを得たように、ラケルも自分の召使いによって子どもを得ようとするのです。
ラケルは、「わたしの訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」(6)「姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)、ついに勝った」(8)と言いました。嫉妬から生まれる争いは死にもの狂いの争いと続きます。そしてそれが私たち人間の姿でもあるでしょう。だれかと比べ、嫉妬をして、勝つために争う。それは死にもの狂いにでも勝つための争いです。人間的策略を巡らせて、どうにか勝つ。これは隠すことのない人間の本来の姿でしょう。
4 交換条件
この死にもの狂いの策略は、とても変わった交換条件を用いたものにつながります。レアの子ルベンが恋なすびを見つけてきました。「恋なすび」とは、当時媚薬として効果があると信じられていました。ラケルは「あなたの子供が取って来た恋なすびをわたしに分けてください」(14)と言います。そして「それでは、あなたの子供の恋なすびの代わりに、今夜あの人があなたと床を共にするようにしましょう」(15)と続けるのです。ラケルは恋なすびを得るために、ヤコブとレアが一晩共にすることを認めました。冷静な目でみますとどっちがよいのかわかりませんが・・・ここにはラケルの死にもの狂いの必死な姿をみることができるのです。そして人間の死にもの狂いの必死な姿はなんと醜い姿であるかを教えるのです。
5 御心にとめられる
神様はラケルを心に留められました。今日の箇所のテーマは、人間の醜い嫉妬の争いを中心としたものではないでしょう。テーマは「主なる神様が心に留められている」ということです。子どもが与えられる。新しい命が与えられるのは、主なる神様が心に留められることによって与えられる恵みであることです。
イスラエルの民、12の部族は神様の働きの内に与えられたのです。人間的には二人の姉妹の嫉妬の思いの中で、人間的には醜い姿でありながらも、そこに神様が働いて下さっている時に、新しい命を見ることができるのです。捕囚時代において未来を見ることができなくなっていたイスラエルにとって、主が覚えていてくださること、御心に留めていてくださるということ、そしてその主の御心によって新しい命が与えられるということは大きな希望であったでしょう。
人間の死にもの狂いな策略をもってしてもどうにもならないときに、そんな自分たちのちからでは希望がまったく見えないときに、本当に主なる神様が見てくださっていることを教えているのです。
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