1 ヤコブの脱走
神様の招きを受けてヤコブは帰還の歩みを始めます。ヤコブはラバンが出かけている時にすべての財産を持ち、ラケルは「父の家の守り神の像を盗ん」で旅立ったのです。この脱走劇は「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」(31:3)という神様の招きに応えた道でした。「わたしはあなたと共にいる」と言われた神様の招きに応える道です。ここで神様の「招き」、またその招きに「応える」ことの意味を考えさせられます。神様の招き、神様の御心はどこにあるのか、またその御心に応えていくとは、どういう姿をいうのでしょうか。
2 ラバンの追跡
ラバンはヤコブが逃げ出したことを3日後に知り、そして7日の道のりをかけてヤコブに追いつきました。ヤコブが10日でつける距離ではありませんでした。この時ヤコブは多くの財産をもっていましたし、それほど速く進むことはできなかったでしょう。それでも聖書はギレアドの山地でラバンが追いつくというのです。これはこの距離の遠さから、ラバンが追いかけた時間の長さを表してもいるのだと思います。ラバンの心が落ち着きを取り戻すためにも10日という長い時間とギレアドという遠い距離が必要だったのでしょう。またこのギレアドの山地に行く間には、「ヤコブはこうして、すべての財産を持って逃げ出し、川を渡りギレアドの山地へ向かった。」(21)とあるように川を渡る必要があったのです。この川を渡るという行為も心の落ち着きを取り戻す、心が変えられるための行為として見ることができるのです。
そのようなラバンに神様は言いました。「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい。」(24)これは「ヤコブの良いことから悪いことまでのすべてを問わず、ことを荒立てないように」と示された神様の言葉でした。距離、時間、そして環境に加え、神様はヤコブを守るためにラバンに自らの御言葉を語られたのです。
3 ラバンの心の変化
ラバンは2つの事を問います。
1つは「娘たちを戦争の捕虜のようにし、こっそり逃げ出した」ことでした。娘たちを戦争の捕虜、つまり剣という恐怖のうちに連行される女性たちのように、娘たちを連れ去っていったことです。もう1つは、「なぜわたしの守り神を盗んだのか。」(30)ということでした。ラバンは娘たちを連れ去れたこと、そして守り神を盗んでいったことに怒り、追いかけてきたと言うのです。
ラバンの心が落ち着きを取り戻すためにも10日という長い時間とギレアドという遠い距離がありました。そしてラバンには神様の介入の言葉がありました。そこにラバンの心は怒りに燃え、ただヤコブを許さず非難するだけの心から、落ち着きを取り戻し整理された質問となった言葉になっていたのでしょう。
4 現実に働かれる方
ヤコブはラケルがラバンの「守り神の像」を盗んだことを知りませんでした。
ここにはヤコブの神様とラバンの神様の大きな違いが記されています。イスラエルの神様による言葉によって心を動かされたラバンです。神様はラバンの心を動かし、現実に働かれました。それは、今も、とこしえに生きる神様が、人間の生きるこの世にあって働かれていることを教えます。しかしまたラバンの「守り神の像」は何もすることはなかったのです。「守り神の像」はその持ち主が相続権を持つとも言われるほど大切なものでした。しかし、ここでは当時、不浄とされる女性の下に置かれ、隠されても何もできなかったのでした。ここにはラバンが神様の像を探しても見つけることのできないということ、また死刑にも等しいことを行ったのは実の娘の方であったということ、そして不浄とされる場に「守りの神の像」があったということなど、イスラエルの神ではないものを信じる者、不信仰者に対するいやみ、笑いの言葉があるのです。
5 立場の逆転 現実に働かれる神様
このお互いの神様の姿によって、立場の逆転が起こります。ヤコブはこれまで自分がどれほど誠実に働いてきたのか、裏切ることなどなかったと。そしてラバンのこれまでの態度を非難するのです。もともと逃げ出したのはヤコブであり、そのヤコブに対して怒りのうちに追いかけていたはずのラバンです。しかし、ここで神様の働きによってヤコブとラバンの立場は逆転されていくのです。この物語のヤコブとラバンの姿から、イスラエルの民はどれほど勇気づけられたでしょうか。イスラエルの民は、この物語を聞くときに、自分たちの信じる神様が必ず救い出してくださることを何度も確認したのでしょう。
今日の箇所では、どれほど用意周ブであっても、ラバンの追跡から逃げ出すことができなかったこと、そしてそんなヤコブを助けられた神様の姿を見ることができるのではないでしょうか。このヤコブが逃げ出すことができたことに神様の働きを見ることができます。しかしまた、神様の招きとは、ヤコブが逃げ出すことができるか、できないかということだけではないでしょう。このもう少し後に神様はヤコブ自身の心を変えられていきます。今日の箇所においてヤコブは脱走すること、ラバンからどうにか逃げ切ることが中心であったでしょう。
しかし、神様の招きを考えるときに、今日の箇所は神様の招きのほんの一部であり、神様の招きはもっと大きく、壮大で、これからヤコブが変えられていくこと、そして神様に向かうものとして生きていくことに本当の招きがあるのではないでしょうか。
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