1 和解の契約
今日の箇所は、ラバンとヤコブが和解の契約を行っていく場面です。今日の前の話ですが・・・ヤコブはラバンのもとから脱走しました。この脱走のときに、ヤコブの知らないあいだに妻ラケルがラバンの「守り神の像」を盗んだのです。ラバンはヤコブを引き止めたいという思いと、またこの「守り神の像」を取り返すためにもヤコブを追跡します。しかしこのラバンの「守り神の像」はラケルの知恵によって見つからなかったのです。ヤコブはこのことからラバンを責めたてるのです。ラケルによって盗み出された「守り神の像」はラバンのために何もできませんでした。それに対し、アブラハムの神、イサクの神がヤコブのために働きラバンを諭されたのです。ここではそのような本当の神様の働きによるヤコブの導きを教えるのです。
このヤコブの言葉に対してラバンはもはや何も言うことができなかったのでしょう。ラバンは言いました。「この娘たちはわたしの娘だ。この孫たちもわたしの孫だ。この家畜の群れもわたしの群れ、いや、お前の目の前にあるものはみなわたしのものだ。しかし、娘たちや娘たちが産んだ孫たちのために、もはや、手出しをしようとは思わない。」(31:43)
ラバンはこのヤコブの財産はすべて自分のものだと主張します。そしてそれでも娘の為に、そして孫のために、「もはや手出しをしようと思わない」と、口語訳では「何が出来ようか」と言うのです。これはラバンの強がりの言葉であり、落胆の姿でもあるでしょう。この「もはや手出しをしようと思わない」とはモーセがファラオのもとから旅立つときのファラオの姿にも似ていると言えます。多くの駆け引きをおこなってきたラバンとヤコブです。二人の決着は、和解の契約での決着とも言えますが、これはあきらかにヤコブがラバンに打ち勝った出来事です。そしてそれはモーセがファラオに打ち勝ったように、「もはや手出しをしようと思わない」と思うほどに、人間の知恵を超えた、神様の導き、神様の招きという働きがあったことを教えるのです。
2 契約の記念碑
ラバンは「さあ、これから、お前とわたしは契約を結ぼうではないか。そして、お前とわたしの間に何か証拠となるものを立てよう。」(31:44)と言いました。そしてヤコブが石をとり、記念碑を立てたのです。記念碑、その石塚は契約を表す目に見える証拠です。そして一緒に食事をすることは契約の締結を表します。
「ラバンはそれをエガル・サハドタと呼び、ヤコブはガルエドと呼んだ。」(47)「ガルエド」とは「証拠の石塚」「証人の積み重ね」という意味をもつ言葉であり、ここの地名「ギレアド」の由来ともされる言葉です。そして「エガル・サハドタ」とは「ガルエド」がヘブライ語であるのに対し、この「エガル・サハドタ」とは、この「ガルエド」のアラム語です。創世記でアラム語が使われるのは、この場面だけとなっています。そのようなことから、ここでイスラエル人ヤコブとアラム人ラバンという民族の違いを強く表していると受け取ることができる言葉となっています。イスラエルという民族の象徴的存在「ヤコブ」とアラム人である「ラバン」の和解の契約がなされたのです。この記念碑を見る時に、イスラエルの人々、アラムの人々は何を思うのでしょうか。和解の出来事でしょうか。それともイスラエルの人々は自分たちとアラム人は違う者として、選民意識を強めるのでしょうか。日本にも多くの記念碑がたっています。イエス様は言われました「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」(ルカ19:40)私たちは記念碑を見る時に、教える意味を正しく覚える必要があるのでしょう。特に、世界には人類の「負」の行為を記念にとどめるために、役割をはたす「負の世界遺産」があります。その一つに広島の平和記念碑(原爆ドーム)が入っています。私たちはこの「負」の遺産から何を学ぶのでしょうか。この「負」の遺産から声を聞かなくなるときに同じことを繰り返す人間となるのでしょう。
3 ミツパ
そこはまた、この場所はミツパ(見張り所)とも呼ばれたのです。ミツパとは見張り場の意味をもつ言葉です。ラバンは「もし、お前がわたしの娘たちを苦しめたり、わたしの娘たち以外にほかの女性をめとったりするなら、たとえ、ほかにだれもいなくても、神御自身がお前とわたしの証人であることを忘れるな」(50)と言いました。一夫多妻制であり、ヤコブにもレア、ラケル、ジルパ、ビルハと何人もの妻がいました。ラバンはヤコブとの和解の協定のなかで、娘のことを想うのです。ラバンは「ミツパ」、主が見張っていることを忘れないようにと言います。娘が一人の人間としてその人格が守られるために語った言葉でしょう。
同時に、ラバンが、ラバンとヤコブの二人の和解の契約のうちに、神様がその和解の契約を見張っておられることを忘れないようにと語るのは、人間と人間の契約、約束を神様が知っていること、見ておられることを確認する大切な言葉でしょう。この和解の契約が、神様というお方、創造主なる方を土台に結ばれたものであることを表すのです。
4 アブラハムの神
ラバンの言葉は続きます。「アブラハムの神とナホルの神、彼らの先祖の神が我々の間を正しく裁いてくださいますように。」(53)「アブラハムの神」、「ナホルの神」、そして「彼らの先祖の神」と続きます。この箇所で「彼らの先祖の神」という言葉はもともとはないもので、後からの挿入された言葉と考えられています。アブラハムの神とナホルの神を同一視するために後から付加されたのでしょう。そして「ヤコブは山の上でいけにえをささげ、一族を招いて食事を共にした。食事の後、彼らは山で一夜を過ごした。」(54)ヤコブは「いけにえをささげ」ました。この神様に対するいけにえを献げるときに、この契約は神様の前での契約とされたのです。ヤコブとラバンの和解の契約は神様の前における契約となりました。
ここでヤコブの物語は一つの区切りとなります。そしてこれは、同時にヤコブには、これから兄エサウとの和解という課題が残されていることをも表すでしょう。ヤコブはここから父イサクの地、エサウのもとに帰るのです。ヤコブは、父をだまし、兄エサウから長子の権利も祝福も奪い取ったのです。そして兄エサウから逃げ出しました。その旅は伯父ラバンのもとに到着する事で終わりを告げます。しかしそこからヤコブはラバンに騙されて、ラケルとの結婚を求めていながらも、レアと先に結婚することになり、そしてラバンのもとで20年間も働くことになったのです。そしてこのラバンのもとから脱走し、今日の箇所で、ラバンと和解の契約を結んだのです。このヤコブの物語は、これから兄エサウとの和解に向かうのです。
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