今朝は、召天者記念礼拝です。東福岡教会に連なる信仰者あるいはその人たちに関係する人たちの、すでに天に召された方々を思い起こし、神を礼拝する時、神を礼拝する中で彼らを思い起こすときです。数週間前から、心に響いてきた聖書の言葉は、「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」というヘブル11:4の言葉です。このみ言葉は、信仰を持つ人にとって、死というものは、決して最後の言葉ではないということを私たちに教えています。人は死に臨んで、何かをこの世に残していくのです。そして、その残してゆくものによって今も語り続けているのです。それはその人が生きた証のようなものです。死んでもなお語っている者がある一方で、生きている私たちは一体、何を語っているのでしょうか。死んで今もなお語っている者もあれば、生きていて口ごもって何も語らない者もあるのかも知れません。私たち生きている者の語り、生き方が、すでに召された人たちの語りや生き方に勝っているなどと言えるのでしょうか?
私たちは、今もなお語っている人たちの声を今朝どのように聴くのでしょうか?
1.人間にとって確かなこと:誕生と死の間に生きる
人間にとって確かなことは2つあります。だれもが誰かから、つまり、両親から生まれ、そのいのちを生き始めたということです。第二は、人は、いつかは死を迎えるという事実です。そして、この誕生と死の間に、その人それぞれの人生を生きるわけです。
2.信仰によって生きる
ヘブライ11:1には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と言われています。誕生と死に区切られた私たちのいのちを、私たちはそれぞれ生きるわけですが、その中心にあるのは、信仰によって生きるということです。その内容は、神は真実であり、私たちは神の恵みによって、愛され、救われるということなのです。むろん、私たちが肉眼で見ることのできるもの、経験するものは、人生の様々な挫折、苦難、悲しみ、怒り、暴力、不条理です。東北の人たちは大地震、津波、原発事故、そして今回は堤防決壊による水害に被災しています。先週の安保関連法案の参議院での顛末もいろいろ考えさせられました。しかし、信仰は、そのような人間的な喜怒哀楽の根底に、人間の正義感や権力、あるいはちょっとして善意とは違った、目には見えない神の正義、神の愛、約束を信じ、神は真実であることを見るのです。
3.信仰によって、今もなお語っている
そのような信仰者の群れの最初に「アベル」を挙げています。アベルは兄の逆恨みによって、誰もいない荒野で、殺せれます。神は、兄に対して、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」といいます。愛するということがどうも旨く行かない、正義が成り立たない。力と策謀が支配しているように見えるこの世界。そのただ中で、アベルが指し示したもの、しかも無残な死を通して指し示したものは、十字架で殺され、血をながされたイエスをよみがえらせることになる、主なる神の真実と力への信頼、主はやがて慰めを与えて下さる、救いを成就してくださるという希望でした。私たちは今朝、いまなお語っている信仰者たちの声をどのように聞くのでしょうか?
(松見 俊)
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