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2015.9.27 「信仰によって今もなお語っている」 ヘブライ人への手紙11:1-4(全文)

 今朝は、召天者記念礼拝です。東福岡教会に連なる信仰者あるいはその人たちに関係する人たちの、すでに天に召された方々を思い起こし神を礼拝する時、神を礼拝する中で彼らを思い起こすときです。私自身は、一昨年亡くなられた島村さん、そして、40年以上前神学生の時代にお交わりを頂いた幾人かの方としか面識がありません。ですから、出会いの中での具体的な思い出話をすることはできません。そこで、聖書のお話しようと思っています。数週間前から、心に響いてきた聖書の言葉は、「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」という口語訳聖書のヘブル人への手紙11:4の言葉です。

 今朝の礼拝では、新共同訳聖書で、11章の1節から読んでいただきました。

 このみ言葉は、信仰を持つ人にとって、死というものは、決して最後の言葉ではないということを私たちに教えています。人は死に臨んで、何かをこの世に残していくのです。そして、その残してゆくものによって今も語り続けているのです。それはその人が生きた証のようなものです。死んでもなお語っている者がある一方で、生きている私たちは一体、何を語っているのでしょうか。死んで今もなお語っている者もあれば、生きていて口ごもって何も語らない者もあるのかも知れません。私たち生きている者の語り、生き方が、すでに召された人たちの語りや生き方に勝っているなどと言えるのでしょうか? 私たちは、今もなお語っている人たちの声を今朝どのように聴くのでしょうか?


1.人間にとって確かなこと:誕生と死の間に生きる

 人間にとって確かなことは2つあります。だれもが誰かから、つまり、両親から生まれ、そのいのちを生き始めたということです。第二は、人はいつかは死を迎えるという事実です。そして、この誕生と死の間に、その人それぞれの人生を生きるわけです。寿命の長さの違いや運命的境遇の違い、喜びの経験と悲しみの経験の絡み合い方、健康であるのか、ちょっと病弱であるか、などの違いはあるでしょう。それでも、人は誕生から死へと、この二つ現実の狭間に生きています。信仰を持つか、持たないかを問わず、それが私たちの経験から考えることのできる事実です。


2.信仰によって生きる

 しかし、信仰によって生きる人は、この誕生と死の間のそれぞれの「いのち」を少し別の視点で考え、生きています。ヘブライ人への手紙11:1には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と言われています。信仰の定義としてはいささか部分的で、不十分ではありますが、聞くべきメッセージを持っています。誕生と死に区切られた私たちのいのちを、私たちはそれぞれ生きるわけですが、その中心にあるのは、信仰によって生きるということです。その内容は、神は真実であり、私たちは神の恵みによって、愛され、救われるということなのです。むろん、私たちが肉眼で見ることのできるもの、経験するものは、人生の様々な挫折、苦難、、悲しみ、怒り、暴力、不条理です。東北の人たちは大地震、津波、原発事故、そして今回は堤防決壊による水害に被災しています。津波で家を失い、鬼怒川流域に引っ越して、また家を流された男性のテレビインタビューを聞いて思わず絶句してしまいました。また、政治的立場はいろいろあるでしょうが、先週の安保関連法案の参議院での顛末もいろいろ考えさせられました。むろん、人生にはまた、喜びも幸いもあることでしょう。人間、決して捨てたものではないというもの、きらりとしたものを誰もが持っているでしょう。

 しかし、信仰を持つものは、そのような人間的な喜怒哀楽の根底に、人間の正義感や権力、あるいはちょっとして善意とは違った、目には見えない神の正義、神の愛、約束を信じ、神は真実であり、神は私たちを必ず救って下さると信じるのです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。パウロはコリントの信徒への手紙II,4:18でこう言います。「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する」。また、だから、「わたしたちは、目にみえるものによらず、信仰によって歩んでいる」と。(5:7)。これこそ、やがて死にゆく人間にとって、最も大切なことなのです。だからこそ、「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」と言われているのです。神が認めて下さるのは、私たちの業績、財産、外見的美しさなどではなく、信仰なのです。


3.信仰によって、今もなお語っている

 ヘブライ書は、そのような信仰者の群れの最初に「アベル」を挙げています。旧約聖書の創世記4章にカインとアベルの物語が描かれています。最初の兄弟喧嘩、殺人事件です。アダムがエバを知って男子が生まれ、カインと名づけられました。カインとは「得た」という意味です。この命名の中に、生命の尊さ、子どもを持つことの喜び、希望が語られているのでしょう。更に、次男が生まれ、アベルと名づけられました。それは「息」または「空しい」という意味です。ポルトガルで牧師をしているアベル・ペゴという友人がおりますが、「アベル」とは、「息」あるいは「空しい」という意味です。人間は息のように、はかなく、空しい存在であるということなのか、あるいは、生命の息を神から与えられて生きるようになったことの喜びの表現なのか、良く分かりませんが、人間の限界と可能性とが絡みつくような名のつけ方なのでしょう。この命名の中にアダムとエバの夫婦に生まれた子どもたちを巡る葛藤、人生の苦労と、そして、子どもを持つことの喜びと苦しみが語られているわけです。アベルはやがて羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。

 ある時、二人は神を礼拝し、アベルは羊の初い子をカインは耕して得た穀物の捧げ物をしました。神はアベルの捧げ物を顧み、カインの捧げ物はは喜ばれませんでした。私は、はじめてこの箇所を読んだとき、神の不平等への怒りというより、大きな不安を覚えました。普通は「なぜ、神は不公平、不平等の神であるのか」ということが問題となるのですが、私には、自分は「棄てられたものではないのか」ということが不安だったのです。カインのように、私が長男であるということが影響していたのかも知れません。イスラエル民族はもともとは小家畜を養う遊牧民であり、農耕民族のカナン人と敵対関係にありましたから、そのような歴史がこの物語に影響しているのかも知れません。しかし、実際は、なぜ、アベルが受け入れられ、カインが顧みられなかったのか、創世記は説明をしていません。

 ところが、ヘブル11:3は、アベルは「信仰によって」まさった捧げ物をしたと言っています。アベルは心を空しくし、恵みの神を信じて捧げ物をしましたが、カインは、自分の義を立て、神より受けた感謝より、どこかで、自分の努力の汗をたらして得たものを誇りをもって捧げたというのでしょうか。結果的には、怒り狂ったカインは、誰もいない荒野で、アベルを殺してしまいました。カインに対して神はこう語ります。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」。なんという恐ろしい、しかし、恵みに満ちた言葉なのでしょうか。誰も見ていなくても神は見ており、無辜の人の血を吸った土、土の上に流された血が叫んでいるというのです。そして、その血の叫びは神の耳に届いているというのです。このアベルの叫びは、十字架上での主イエスの叫びの魁(さきがけ)ではないでしょうか? ヘブライ12:24には、「新しい契約の仲介者イエス、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」とあります。愛するということがどうも旨く行かない、正義が成り立たない。力と策謀が支配しているように見えるこの世界。そのただ中で、アベルが指し示したもの、しかも無残な死を通して指し示したものは、十字架で殺され、血をながされたイエスをよみがえらせることになる、主なる神の真実と力への信頼、主はやがて慰めを与えて下さる、救いを成就してくださるという希望でした。私たちは今朝、いまなお語っている信仰者たちの声をどのように聞くのでしょうか?


4.信仰を持って生きることへの呼びかけ 

 すでに召された人生の先輩たちには、全く問題がなく、幸福で満ちていたとはいえないかもしれません。しかし、彼らはこの生きにくい世の中を信仰を持って生きたのです。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えるものからできたのではないことが分かるのです」(3節)。私たちもまた、人生の先輩たちのこのような生き方に恥じないように、その声が死をも越えて語り出すような生き方をするように招かれているのではないでしょうか?「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。・・・だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。神は、彼らのために都を準備されていたからです」(ヘブライ11:13、16b)。私たちも、神の真実への信仰を持って歩みましょう。