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2015.10.14 「苦しみは幸いへ」 創世記35:16-29

1 死と生

 今日の箇所は16-20、21-22、23-36、27-29と別々の資料に基づく、それぞれの話でできています。妻の死、息子の誕生、息子の不従順、息子の一覧表、父親の死。それでも、ここに記されている話は一つのテーマを示します。それは「生と死」というテーマです。


2 ラケルの死とベニヤミンの誕生

 今日の箇所で、ヤコブの最愛の妻ラケルが死にます。ラケルは産みの苦しみを受けて「ベン・オニ(わたしの苦しみの子)」(18)と名付けて死んでいったのです。ラケルにとって、この子は苦しみの子だったのでしょう。それでもヤコブはこの子を「ベニヤミン(幸いの子)」と呼んだのです。最愛の妻の死とその妻が産んだ子の誕生。この死からの新しい命の誕生は、困難のうちに与えられる新しい希望を見るのです。死の只中にあって、新しい命が生まれます。そしてヤコブはこの子を「ベニヤミン(幸いの子)」と呼ぶのです。この出来事はイスラエルの民の根底にある、命の主の存在を見ることができるのではないでしょうか。死から与えられる新しい命の誕生です。

 苦しみが幸いとなる。私たちの信仰の根底には、この苦しみを幸いとされる神様がいるのです。わたしたちはだれでも大なり小なり、山あり谷ありの人生となっているでしょう。ずっと同じ形での幸せに生きるのではないのです。そして最後にはすべての者に死が訪れるのです。人間的に見るならば死は人生の終わりで、悲しみの時でしかないのです。しかし、神様を信じるということは、その死は終わりではなく、新しい命の始まりの時、幸いにつながる出来事だと信じるのです。

 悲しみは喜びに、死は新しい命に変えられるのです。


3 ルベンの不従順

 「イスラエルがそこに滞在していたとき、ルベンは父の側女ビルハのところへ入って寝た。このことはイスラエルの耳にも入った。」(35:22)

 ルベンの行為は単に性道徳だけの問題ではなく、政治的な事柄として見ることができます。長男であるルベンが父親の側女を寝取ったことは、父親の存在を無視し、自分が権力を持つ者であることを表します。つまり父、ヤコブは死んだ者として考えている。そんな意味も含めた行為です。イスラエル・ヤコブは自らが、エサウから長子の権利を奪い、神様の祝福をだまし取ったのです。そんなヤコブもまた、息子によって父としての存在を無視されて、権威を奪い取ろうとされたのです。「イスラエルの耳にも入った」と唐突な終わり方ですが、70人訳聖書には「それは彼の目に悪と映った」と補われています。後の箇所ではこのように言われます。「ルベンよ、お前はわたしの長子、わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い。お前は水のように奔放で長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上りそれを汚した。」(49:3-4)

 ルベンの不従順は、その少し前の記事34章にあるシメオンとレビ、そして38章に示されるユダの事件を含め、ルベンとシメオン、レビとユダと、レアが最初に産んだ4人の子どもによって、このヤコブの息子たちの無秩序さと不従順さが記されています。ヤコブ一家は、約束の地カナンに帰ってきました。しかしその直後に娘のディナがシケムによる暴行をうけます。それは赦されない罪でした。そのために割礼を利用し、報復をするのです。しかしそこでしたことは、略奪であり、女子どもを捕虜としたのでした。カナンの地の汚れた文化に強く反発し、聖なる民としての名のもとに報復をし、結局はカナンの人々、つまりこの世的な行為を行うのです。そしてこのルベンの行為は、まさにこのカナンの文化に同化した姿であるのです。

 ヤコブ一家が約束の地に入れられることは、わたしたちにとっては、主の信仰に入れられることにつながります。しかしまた、わたしたちが生きるのはこの世であり、神様を無視した社会です。私たちは日々気を付けなければ、すぐにこの世的考えに戻されます。そのような意味でルベンが特別、間違った人間で、弱い者であるよいうことではなく、この世における人間の姿を表しているのです。


4 12人の息子

 ヤコブの息子は十二人であった。レアの息子がヤコブの長男ルベン、それからシメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ラケルの息子がヨセフとベニヤミン、ラケルの召し使いビルハの息子がダンとナフタリ、レアの召し使いジルパの息子がガドとアシェルである。これらは、パダン・アラムで生まれたヤコブの息子たちである。(22-26)

 この後49章においてヤコブがそれぞれにそれぞれの祝福を与えます。そしてこの12人はイスラエルの12部族となっていきます。その祝福、その恵みはそれぞれの違いのうちに与えられるのです。神に選ばれた民イスラエルは、同様の祝福のうちに選ばれました。しかしそこで受けた祝福は、それぞれに違いがあるのです。わたしたちに与えられた神様からの祝福は、イエス・キリストによってまとめられます。しかしまた、それは私たち個人、一人一人によって違った祝福となっているのでしょう。神様と人間をつなげられたイエス・キリストは、それぞれの違いにあった祝福の基として、私たちを見てくださり、私たちに、それぞれの必要な恵みを与えてくださっているのです。


5 イサクの死

 この最後の記事にエサウとヤコブの父イサクの死が記されます。死から始まり、命の誕生、そして不従順の人生に続き、最後にもう一度死によって結ばれているのです。ラケルの死からはじまり、イサクの死に終わるのです。この記事はどれほどヤコブに悲しみと絶望を与えたのでしょうか。最愛の妻と、父の死です。しかしまた、この死から始まり死に終わる記事はとてもむなしさを示すというよりも、苦しみの死から生まれた命が、不従順の道を歩き、それでも満ち足りて死を迎えることを示すのです。死んでいくイサクの前にはエサウとヤコブがいたのです。180年という長寿に加え、兄弟が和解している姿を前に死んでいくイサクです。このイサクは満ち足りて死んでいくのです。イサクは自分の人生が満ち足りていたと同時に、信仰によって守られて神様のもとにいくことを信じていたのでしょう。その一つの証しとして兄弟の和解があるのです。

 争い続けていた兄弟が和解する姿。その関係の回復に、イサクは神様の御業をみたのでしょう。神様は争いから和解へ、死から新しい生を生み出すのです。